信仰度。
その三文字は、共有シートの右端で、まだ空欄のまま光っていた。
数字もない。
記号もない。
誰かの名前も入っていない。
ただ、列の名前だけがある。
なのに、その空欄は、もう人を分けていた。
「消せ」
慧が言った。
声が低かった。
ファミレスの冷房の音が、急に大きく聞こえた。隣の席では、大学生らしい二人が課題の話をしている。ドリンクバーの機械が、氷を落とす音を立てた。
私たちのテーブルだけ、別の場所みたいだった。
咲は、画面から目を離さなかった。
「消しても、違いは消えない」
「違いって何だよ」
慧の声が少し荒くなる。
「供え物を送った人。何度もDMする人。白い面を持ってる人。神様を信じてる人。ただ相談してる人。違うでしょ」
「だからって、信仰度なんて名前をつけるな」
「じゃあ、何て呼ぶの」
咲が聞いた。
慧はすぐには答えなかった。
名前をつけなければ、ないことにできる。
私たちはずっと、そうやってきた。
悪ノリ。
相談。
懺悔。
供え物。
神託。
名前を変えるたびに、少しだけ安心した。
安心しながら、同じ方向へ進んだ。
陸がノートパソコンの画面を覗き込んだ。
「分類自体は必要だと思う」
「陸」
慧が睨む。
陸は少しだけ肩をすくめた。
「だって、事実として違うじゃん。供え物ありの人と、なしの人。DM1回だけの人と、10回送ってる人。白い面をスマホに入れてるって言ってる人。危険度とは別に、反応の強さを見ないと」
「反応の強さ」
私は小さく繰り返した。
信仰度より、ずっと普通に聞こえた。
普通に聞こえるから、余計に怖かった。
「やめよう」
慧が言った。
その言葉は、今までで一番はっきりしていた。
新がスプーンを止めた。
「何を」
「全部」
慧は私たちを順番に見た。
「神様の声。懺悔室。供え物管理。シート。全部だ」
杏の顔がこわばった。
「全部、やめるの?」
「やめるべきだ」
慧は言った。
「金が来た。供え物とか言われてる。見返りを求める人が出てきた。信仰度なんて言葉まで出た。これ以上続けたら、本当に戻れなくなる」
戻れなくなる。
その言葉が胸に刺さった。
戻れる場所なんて、もう見えなかった。
でも、慧がそう言うなら、まだ戻れる気もした。
「でも」
杏が言った。
小さな声だった。
慧の目が、少しだけ揺れる。
「杏」
「分かってる。慧の言うこと、分かってる」
杏はスマホを両手で握っていた。
「でも、今日だけで未対応が150件ある。懺悔室も増えてる。『見捨てないで』って来てる。今、急に消したら、その人たち、本当に見捨てられたって思うかもしれない」
「俺たちは神様じゃない」
慧が言った。
「見捨てる権利も、救う義務もない」
「でも、もう神様って呼ばれてる」
杏の声が震えた。
「呼ばれたからって、なっちゃだめだろ」
慧の言葉は正しい。
正しすぎた。
正しい言葉は、逃げ道をなくす。
だから、私たちはいつも、正しい言葉から少しだけ目を逸らした。
新が、わざと軽い声を出した。
「でもさ、全部やめるって言っても、現実的じゃなくない?」
「現実的?」
慧が聞き返す。
「だって、消してもスクショ残るし。オラクルみたいなまとめ垢もあるし。神様の言葉だけ勝手に流れ続けるかもよ。それなら、俺らがまだ管理してたほうが安全じゃない?」
管理。
その言葉は、陸がよく使う言葉だった。
でも、新が言うと、もっと軽く聞こえた。
軽く聞こえるから、飲み込みやすかった。
陸も頷いた。
「全部やめるより、段階的に縮小するほうがいいと思う。まず供え物対応を整理して、危険度高い相談は専門窓口へ誘導して、返信優先度を決める」
慧は陸を見た。
「返信優先度って、何だ」
陸は画面を指した。
「今のままだと、来た順でも無理。危険度、未対応時間、繰り返し送信、あと――」
陸はそこで止まった。
言わなかった言葉が、全員に聞こえた。
供え物。
「供え物は入れるな」
慧が言った。
「金を受け取ったら終わりだ」
その声は、ほとんど怒鳴り声だった。
私は肩をすくめた。
隣の席の大学生が、ちらっとこちらを見る。
いつもの私なら、ここで言う。
声、小さくしよ。
一回落ち着こ。
慧の言うことも分かるけど。
空気を戻すための言葉を探す。
でも、その日は、何を言っても空気が戻らない気がした。
杏が俯いた。
「救うのに順番をつけたくない」
その言葉で、胸が痛くなった。
杏は、本当にそう思っている。
誰かを助けたいと思っている。
でも、助けたい人が多すぎて、どこから手を伸ばせばいいのか分からなくなっている。
新が小さく息を吐いた。
「でも、相談は多すぎる」
誰も答えなかった。
新は続けた。
「供え物した人を優先するのは、普通じゃない?」
慧が顔を上げた。
「篠原」
「いや、怒る前に聞いてよ。別に金持ってるやつが偉いって言ってるんじゃない。でもさ、向こうは本気度を示してるわけじゃん。チョコでもカフェラテでも、何かを差し出してる。こっちは全部見きれない。だったら、強く届こうとしてる人を先に見るのって、そんなに変?」
変だ。
そう言えばよかった。
すぐに言えば、そこで止まったかもしれない。
でも私は、言わなかった。
強く届こうとしている人。
新の言葉は、供え物をきれいに言い換えていた。
お金ではなく、本気度。
見返りではなく、届こうとする気持ち。
言い換えは、私の得意なことだった。
だから、余計に気持ち悪かった。
「俺だって、良いとは思ってない。でも、今の数を見ろよ。誰かを先に見ないと、誰も見られない」
咲が、水のグラスに指を添えた。
「人は救いにも値段をつけるんだね」
静かな声だった。
誰もすぐに返せなかった。
その言葉は、私たちに向けられているようで、供え物を送ってくる人たちに向けられているようでもあった。
その三文字は、共有シートの右端で、まだ空欄のまま光っていた。
数字もない。
記号もない。
誰かの名前も入っていない。
ただ、列の名前だけがある。
なのに、その空欄は、もう人を分けていた。
「消せ」
慧が言った。
声が低かった。
ファミレスの冷房の音が、急に大きく聞こえた。隣の席では、大学生らしい二人が課題の話をしている。ドリンクバーの機械が、氷を落とす音を立てた。
私たちのテーブルだけ、別の場所みたいだった。
咲は、画面から目を離さなかった。
「消しても、違いは消えない」
「違いって何だよ」
慧の声が少し荒くなる。
「供え物を送った人。何度もDMする人。白い面を持ってる人。神様を信じてる人。ただ相談してる人。違うでしょ」
「だからって、信仰度なんて名前をつけるな」
「じゃあ、何て呼ぶの」
咲が聞いた。
慧はすぐには答えなかった。
名前をつけなければ、ないことにできる。
私たちはずっと、そうやってきた。
悪ノリ。
相談。
懺悔。
供え物。
神託。
名前を変えるたびに、少しだけ安心した。
安心しながら、同じ方向へ進んだ。
陸がノートパソコンの画面を覗き込んだ。
「分類自体は必要だと思う」
「陸」
慧が睨む。
陸は少しだけ肩をすくめた。
「だって、事実として違うじゃん。供え物ありの人と、なしの人。DM1回だけの人と、10回送ってる人。白い面をスマホに入れてるって言ってる人。危険度とは別に、反応の強さを見ないと」
「反応の強さ」
私は小さく繰り返した。
信仰度より、ずっと普通に聞こえた。
普通に聞こえるから、余計に怖かった。
「やめよう」
慧が言った。
その言葉は、今までで一番はっきりしていた。
新がスプーンを止めた。
「何を」
「全部」
慧は私たちを順番に見た。
「神様の声。懺悔室。供え物管理。シート。全部だ」
杏の顔がこわばった。
「全部、やめるの?」
「やめるべきだ」
慧は言った。
「金が来た。供え物とか言われてる。見返りを求める人が出てきた。信仰度なんて言葉まで出た。これ以上続けたら、本当に戻れなくなる」
戻れなくなる。
その言葉が胸に刺さった。
戻れる場所なんて、もう見えなかった。
でも、慧がそう言うなら、まだ戻れる気もした。
「でも」
杏が言った。
小さな声だった。
慧の目が、少しだけ揺れる。
「杏」
「分かってる。慧の言うこと、分かってる」
杏はスマホを両手で握っていた。
「でも、今日だけで未対応が150件ある。懺悔室も増えてる。『見捨てないで』って来てる。今、急に消したら、その人たち、本当に見捨てられたって思うかもしれない」
「俺たちは神様じゃない」
慧が言った。
「見捨てる権利も、救う義務もない」
「でも、もう神様って呼ばれてる」
杏の声が震えた。
「呼ばれたからって、なっちゃだめだろ」
慧の言葉は正しい。
正しすぎた。
正しい言葉は、逃げ道をなくす。
だから、私たちはいつも、正しい言葉から少しだけ目を逸らした。
新が、わざと軽い声を出した。
「でもさ、全部やめるって言っても、現実的じゃなくない?」
「現実的?」
慧が聞き返す。
「だって、消してもスクショ残るし。オラクルみたいなまとめ垢もあるし。神様の言葉だけ勝手に流れ続けるかもよ。それなら、俺らがまだ管理してたほうが安全じゃない?」
管理。
その言葉は、陸がよく使う言葉だった。
でも、新が言うと、もっと軽く聞こえた。
軽く聞こえるから、飲み込みやすかった。
陸も頷いた。
「全部やめるより、段階的に縮小するほうがいいと思う。まず供え物対応を整理して、危険度高い相談は専門窓口へ誘導して、返信優先度を決める」
慧は陸を見た。
「返信優先度って、何だ」
陸は画面を指した。
「今のままだと、来た順でも無理。危険度、未対応時間、繰り返し送信、あと――」
陸はそこで止まった。
言わなかった言葉が、全員に聞こえた。
供え物。
「供え物は入れるな」
慧が言った。
「金を受け取ったら終わりだ」
その声は、ほとんど怒鳴り声だった。
私は肩をすくめた。
隣の席の大学生が、ちらっとこちらを見る。
いつもの私なら、ここで言う。
声、小さくしよ。
一回落ち着こ。
慧の言うことも分かるけど。
空気を戻すための言葉を探す。
でも、その日は、何を言っても空気が戻らない気がした。
杏が俯いた。
「救うのに順番をつけたくない」
その言葉で、胸が痛くなった。
杏は、本当にそう思っている。
誰かを助けたいと思っている。
でも、助けたい人が多すぎて、どこから手を伸ばせばいいのか分からなくなっている。
新が小さく息を吐いた。
「でも、相談は多すぎる」
誰も答えなかった。
新は続けた。
「供え物した人を優先するのは、普通じゃない?」
慧が顔を上げた。
「篠原」
「いや、怒る前に聞いてよ。別に金持ってるやつが偉いって言ってるんじゃない。でもさ、向こうは本気度を示してるわけじゃん。チョコでもカフェラテでも、何かを差し出してる。こっちは全部見きれない。だったら、強く届こうとしてる人を先に見るのって、そんなに変?」
変だ。
そう言えばよかった。
すぐに言えば、そこで止まったかもしれない。
でも私は、言わなかった。
強く届こうとしている人。
新の言葉は、供え物をきれいに言い換えていた。
お金ではなく、本気度。
見返りではなく、届こうとする気持ち。
言い換えは、私の得意なことだった。
だから、余計に気持ち悪かった。
「俺だって、良いとは思ってない。でも、今の数を見ろよ。誰かを先に見ないと、誰も見られない」
咲が、水のグラスに指を添えた。
「人は救いにも値段をつけるんだね」
静かな声だった。
誰もすぐに返せなかった。
その言葉は、私たちに向けられているようで、供え物を送ってくる人たちに向けられているようでもあった。



