神様は誰?

半年前、私たちはまだ、神様ではなかった。

誰かを裁くつもりもなかったし、誰かの背中を押したつもりもなかった。
もちろん、誰かの人生に指を置いたつもりなんて、少しもなかった。

――放課後の教室は、いつもみたいに少し汚かった。

黒板の端には、数学教師が消し忘れた二次関数のグラフが残っていた。窓際の床には、誰かの消しゴムのかすが白く散っていた。カーテンは半分だけ開いていて、夕方の光が机の脚を長く伸ばしている。

そういう、何でもない場所だった。

何でもない場所で始まったことは、何でもないまま終わる。

あの頃の私は、たぶん本気でそう思っていた。

「で、つまり杏は、恋愛相談が来ちゃって死にそうってこと?」

篠原新が、前の席に逆向きで座りながら言った。

椅子の背もたれに顎を乗せている。制服のネクタイは少し緩んでいて、靴のかかとは踏んでいた。先生に見つかったら怒られる格好なのに、新はいつも怒られる前に笑って許される。

許される顔をしている。

その顔を、本人がいちばんよく知っている。

「死にそうとは言ってない。ただ経験がない私には重すぎる……」

望月杏は、スマホを両手で包むみたいに持っていた。画面を隠しているわけじゃない。ただ、画面の中の相談を、落とさないように抱えているみたいだった。

杏は人の話を聞くのがうまい。

うまい、というより、聞きすぎる。

誰かが「ちょっと聞いて」と言えば、杏は本当にちょっとだけ聞くことができない。相手が笑うまで、泣き止むまで、納得したふりをするまで、ずっとそこにいる。

「無理だって言ったのに……。もうこれ、どう返せばいいと思う?」

杏が言った。

早川慧が顔を上げた。

慧は、教室の端の机に座って、英単語帳を開いていた。けれど、ページはさっきから一枚も進んでいない。慧はそういう人だった。勉強している姿勢を取りながら、周りの会話を全部聞いている。

「誰から?」

加賀陸が窓際から言った。

陸は、机の上にノートパソコンを開いている。学校に持ってきていいかどうか微妙なやつだ。本人は「情報の授業で使う」と言い張っているけど、情報の授業でゲームの設定をいじる必要はないと思う。

「部活の後輩」

「で、内容は?」

桐谷咲が、窓の外を見たまま言った。

咲はいつも、会話に入っていないみたいな顔をして、いちばん大事なところだけ聞いている。

黒い髪が頬にかかっていた。表情は薄い。
薄いのに、目だけがちゃんと動く。
見ている。

咲は、人を見るのがうまかった。

人の失敗を笑うためじゃなくて、助けるためでもなくて、ただ見る。
そのせいで、ときどき咲の視線は、温度のないカメラみたいだった。

杏は少し迷ってから、スマホの画面を私たちのほうに向けた。

『先輩! 聞いてください! 私、好きな人がいます。でも、友達もその人のことを好きかもしれません……。告白したら、友達を裏切ることになる気がします。だけど、黙っていたら、自分が嫌いになりそうです……。どうしたらいいですか?』

新が、わざとらしく胸を押さえた。

「青春だ」

「新」

杏が眉を下げる。

「ちゃんと考えて」

「考えてるって。超考えてる。こういうのはさ、結局、怖いほうを選ぶしかなくない?」

「雑」

慧が即座に言った。

「雑だけど本質じゃね?」

新は椅子をぎい、と鳴らした。

「怖くないほうを選ぶと、あとでずっと残るじゃん。あのとき言えばよかった、って。だったら、怖いほうに行け、みたいな」

「それはお前の性格」

「慧の性格だと?」

「まず状況を整理する。友達に確認する。相手との関係性も考える。感情だけで動かない」

「それ言われて動ける高校生いる?」

「いないな」

陸が笑った。
それから、彼はパソコンの画面をこちらへ向けた。そこには、なぜかSNSのログイン画面が開いていた。

「何してるの?」

私が聞くと、陸は悪びれもせずに言った。

「アカウント作れるかなって」

「何の?」

「相談に答える用の匿名アカ」

一瞬、教室が静かになった。

静かになった、といっても、本当に音がなくなったわけじゃない。廊下では運動部の声が響いているし、校庭からはボールを蹴る音がした。どこかの教室で机を引きずる音も聞こえた。

でも、私たち六人の周りだけ、空気が少し止まった。

「匿名アカ?」

杏が聞き返す。

「そう。杏が一人で返すから重いんだろ。だったら、みんなで返せばいいじゃん」

陸は指先でキーボードを叩いた。

「誰が言ったか分かんないようにしてさ。相談に答えるアカウント。学校名は出さない。個人名も出さない。軽いやつ」

「軽い悩みとは限らない」

慧が言った。

「だからルール作ればいい」

陸はすぐに返した。

「ヤバそうなのは返さない。個人情報は出さない。スクショも晒さない。答える時は、ぼかす。どう?」

「ぼかして答えるなら、答える意味ある?」

咲が言った。

陸は少しだけ詰まった。

「いや、あるだろ。たぶん」

「たぶん」

咲はその言葉だけを繰り返した。

責める口調ではなかった。
でも、陸は眉をひそめた。

「じゃあ咲はどう思うんだよ」

「面白いと思う」

咲は言った。

意外だった。

杏も私も、たぶん同じように咲を見た。慧だけは、嫌な予感がしたみたいな顔をしていた。

「面白いって」

慧が低く言う。

「人の相談だぞ」

「うん」

咲は頷いた。

「だから面白い」

その言い方は、少しだけ冷たかった。

でも、咲は続けた。

「人って、匿名の誰かに言われたほうが動けるときがある。親とか友達とか先生に言われるより、どこの誰か分からない言葉のほうが、楽なときがある」

「それ、無責任ってことじゃん」

私が言うと、咲は私を見た。

「無責任だから、受け取れることもある」

その時、何かが胸の奥で小さく鳴った。

無責任だから、受け取れる。

それは、嫌な言葉だった。
でも、少し分かる言葉でもあった。

誰かに直接「こうしなよ」と言われると、反発したくなる。
でも、名前のない言葉なら、反発する相手がいない。
名前のない言葉は、自分の中にすっと入ってしまう。

それが怖いことだと、あの時の私は思わなかった。

「名前どうする?」

新が言った。

もう、やる前提の声だった。

慧が顔をしかめる。

「待て。まだ決まってない」

「決まってないけど、名前考えるのはタダじゃん」

「タダとかの問題じゃない」

「『杏の恋愛相談室』」

「絶対いや」

杏が即答した。

「じゃあ『放課後裁判所』」

陸が言う。

「裁判って、相談より怖い」

「『青春処方箋』」

「ダサい」

咲が短く言った。

新が笑った。

「咲がダサいって言うと、本当に死ぬな」

「本当にダサいから」

「じゃあ咲、案出してよ」

「ない」

「ないんかい」

そうやって、私たちは笑った。

何でもない笑いだった。
六人でいると、誰かの言葉が強くなりすぎる前に、誰かが笑いに変えた。
笑いは、私たちの接着剤だった。

新が、ふと窓の外を見た。

夕方の光が、新の横顔に当たっていた。
そのせいで、いつもより真面目な顔に見えた。

「神様って名前、よくない?」

誰も、すぐには笑わなかった。

神様。

「……大げさだよ」

私は言った。

言ったけれど、声が少し遅れた。

大げさだよ。
そんなの、ふざけすぎだよ。
気持ち悪いよ。

そう思うべきだった。

でも私は、その名前の強さに、少し惹かれていた。

「神様だけだと、宗教すぎる」

慧が言った。

「じゃあ『神様の声』」

新が軽く言い直した。

「声だけ。姿なし。責任なし」

「責任なしって言うな」

慧の声が少し強くなった。

「言葉には責任がある」

「あるある。だから六人で持とうぜ」

新は笑った。

「六等分すれば軽い」

その言葉を、私たちは誰も止めなかった。

六等分すれば軽い。

あの時は、本当に軽かった。
少なくとも、軽く聞こえた。