ノベライズ版「祝祭村からの脱出」にまつわる記録

 私の叫び声は、湿った空気の中に吸い込まれるように消えた。  
 男は驚くほど足が速い。灰色のブルゾンが、木の影の隙間を縫うようにして、迷いなく遠ざかっていく。
 整備されていない歪んだ急な坂道を、息を切らして駆け上がる。
 道すがら、時折目に入る民家の窓は、どれも内側から新聞紙や黒い布で塞がれていた。今は空き家になっているのだろうか、まさに廃村と呼ぶのがふさわしい、

「待ってくれ! 頼む、夜子の……的井夜子のことを知っているんだろう!」

 角を曲がった瞬間、視界が開けた。  
 そこに建っていたのは、見覚えのある——いや、「読み覚え」のある建物だった。

 民宿「はやて」。

 ノベライズの中に登場した民宿と同じ名前だ。なんだか、くらりと少し眩暈がしたような気がする。ここは二枝森村であって、夙彩村――祝祭村ではないはずだ。
 玄関の前で立ち止まり、激しく肩で息をしながら建物を仰ぎ見た。  
 建物の作り、柱のヒビ、入り口に置かれた古びた長靴。それら全てがあのノベライズの記述と一言一句違わぬ姿でそこに存在している。  
 感じたことのない感覚の、私は――ああ、これが没入感なのか、と、今まで夜子が夢中になっていたものの片鱗に触れられたような気がした。
 
 私は意を決して、引き戸に手をかけた。

「……ごめんください。どなたか、いませんか」

 ガラリ、と音を立てて開いた玄関の奥は、外の光が届かないほど暗かった。ひんやりと湿った空気が、肌を撫でる。    
 返事はない。誰もいないのだろうか。
 と、思ったとき。奥の廊下から、微かにカチャリ、カチャリと音が聞こえてきた。  
 ――さっきのキーホルダーの音だ。あの男がまだそこにいる。

 暗がりに目が慣れてくると、帳場のカウンターの上に、ぽつんと何かが置かれているのが見えた。  
 私は吸い寄せられるように歩み寄り、それを手にとった。

 それは、一通の封筒だった。  
 表書きには、手書きの、しかしひどく整った右上がりの文字でこう記されていた。

 『祝祭村からの脱出 最終企画書:的井夜子様 確認用』

 指先が凍りついた。
 祝祭村からの脱出の……企画書が、なぜここに? いや、ここはイベントで使用された舞台だから、プロットがあること自体はおかしくない。誰かスタッフが持ち込んで、そのまま忘れて帰ったのかもしれない。しかし、なぜ。
 どうして、夜子が確認する必要があるんだ?
 夜子は、ただの参加者だ。
 20万円という大金を払って、『祝祭村からの脱出』に参加した、参加者のはずだ。

 私は震える手で封筒の封を切り、中身を引き出した。
 封筒の中には、コピー用紙が一枚と、USBメモリーが一つ入っていた。