20XX年04月12日 公開 「境界線はどこにある?――ARG、イマーシブ、謎解き。私たちが『物語』を欲する理由」
執筆:的井夜子(フリーライター)
「この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。」
かつて、物語と私たちの間には明確な一線がありました。しかし今、その境界線は溶け出し、私たちは物語の「中」へと招待されています。
物語はあくまで物語で、現実とはきっちり切り分けられている。私たちは安全な場所から、それを眺める側だったはずです。
ところが最近、その境界線がずいぶん曖昧になってきました。
気がつけば私たちは、物語を「見る」「読む」だけでなく、「体験する」――その中に足を踏み入れるようになっています。
たとえば、「ARG」「イマーシブシアター」「体験型謎解き」といったジャンルがあります。ここ数年で一気に広まったこれらの言葉は、しばしばひとまとめに語られがちですが、体験の手触りはかなり違います。
たとえば、いわゆるリアル脱出ゲームに代表される謎解き系コンテンツ。主役はプレイヤーの思考力で、物語はあくまで挑戦する理由づけです。制限時間内にクリアできるかどうか、その「勝ち負け」がはっきりしているのが特徴でしょう。
一方で、イマーシブシアターはまったく別の方向を向いています。『Sleep No More』のような没入型演劇では、観客は椅子に座らず、役者と同じ空間を自由に歩き回ります。どこを見るか、何を見逃すかは人それぞれ。ここには正解も不正解もなく、「何を感じたか」そのものが体験になります。
そして、もっともややこしくて、同時に刺激的なのがARGです。普段使っているSNSや、実在するWebサイト、時にはスマートフォンに届く一通の連絡。「現実侵食」と称されることもある作品群では、「これはゲームです」とはっきり言わないまま、物語が現実の生活圏に入り込んでくることさえあります。気づけば、現実そのものが物語の舞台に書き換えられているのです。
これらに共通しているのは、「当事者性」というキーワードでしょう。
見る人、解く人、観客という立場を越えて、「あなた自身」が物語に関わることが求められています。
ただ、その流れを追いかけていると、少しだけ不安になる瞬間もあります。
たとえば一部で熱狂的な支持を集めている「エンノ舎」の作品は、現実と虚構の境界線をかなり危ういところまで押し広げているようにも見えます。
私たちは物語に没入することで、日常から一時的に「脱出」したいのかもしれません。
でも、もしその物語のほうが、現実よりも「本物」に感じられてしまったとき、私たちはちゃんと、こちら側に戻ってこられるのでしょうか。
一度踏み越えた境界線は、簡単には元に戻りません。
私達が現実から脱出した先にあるのは、新たなエンターテインメントを超えたなにかなのかもしれません。
執筆:的井夜子(フリーライター)
「この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。」
かつて、物語と私たちの間には明確な一線がありました。しかし今、その境界線は溶け出し、私たちは物語の「中」へと招待されています。
物語はあくまで物語で、現実とはきっちり切り分けられている。私たちは安全な場所から、それを眺める側だったはずです。
ところが最近、その境界線がずいぶん曖昧になってきました。
気がつけば私たちは、物語を「見る」「読む」だけでなく、「体験する」――その中に足を踏み入れるようになっています。
たとえば、「ARG」「イマーシブシアター」「体験型謎解き」といったジャンルがあります。ここ数年で一気に広まったこれらの言葉は、しばしばひとまとめに語られがちですが、体験の手触りはかなり違います。
たとえば、いわゆるリアル脱出ゲームに代表される謎解き系コンテンツ。主役はプレイヤーの思考力で、物語はあくまで挑戦する理由づけです。制限時間内にクリアできるかどうか、その「勝ち負け」がはっきりしているのが特徴でしょう。
一方で、イマーシブシアターはまったく別の方向を向いています。『Sleep No More』のような没入型演劇では、観客は椅子に座らず、役者と同じ空間を自由に歩き回ります。どこを見るか、何を見逃すかは人それぞれ。ここには正解も不正解もなく、「何を感じたか」そのものが体験になります。
そして、もっともややこしくて、同時に刺激的なのがARGです。普段使っているSNSや、実在するWebサイト、時にはスマートフォンに届く一通の連絡。「現実侵食」と称されることもある作品群では、「これはゲームです」とはっきり言わないまま、物語が現実の生活圏に入り込んでくることさえあります。気づけば、現実そのものが物語の舞台に書き換えられているのです。
これらに共通しているのは、「当事者性」というキーワードでしょう。
見る人、解く人、観客という立場を越えて、「あなた自身」が物語に関わることが求められています。
ただ、その流れを追いかけていると、少しだけ不安になる瞬間もあります。
たとえば一部で熱狂的な支持を集めている「エンノ舎」の作品は、現実と虚構の境界線をかなり危ういところまで押し広げているようにも見えます。
私たちは物語に没入することで、日常から一時的に「脱出」したいのかもしれません。
でも、もしその物語のほうが、現実よりも「本物」に感じられてしまったとき、私たちはちゃんと、こちら側に戻ってこられるのでしょうか。
一度踏み越えた境界線は、簡単には元に戻りません。
私達が現実から脱出した先にあるのは、新たなエンターテインメントを超えたなにかなのかもしれません。



