【悪女の勅命】

なぜ百華様がお一人であんな行燈の無い通路に進む?あの先は確か……っ!?
俺は即座に百華様との距離を詰めて、その肩に触れた。

「レディ、そちらに行ってはいけません」

看破されるかもしれない。それでもお互い狐の仮面を付けている形式上、百華様の名前を呼ぶのは避けた。

「そちらは徒花楼です」
「あら」

甘さを含んだ高い声と共に、徒花楼に続く光の無い道から足を止める。栗色の髪をふわりと靡かせて百華様が振り返る。
露になっている薄紅に彩られた唇が、笑む様に弧を描いた。

「ごめんなさい、少し迷ってしまいましたの。広間まで連れて行って下さらない?――ねえ、ユヅルさん?」
「……許可無く肩に触れてしまい、申し訳ありません」

俺が百華様の肩から手を放すと、距離を取って頭を下げる。
百華様は口元に手を当てて、狐面の奥に光る紅玉色の瞳をにっこりと細めた。

「うふふっ、そんな事くらい何でもありませんよ。ユヅルさんもご招待を受けていたんですね」
「ええ」
「……お義姉様は、近くにいらっしゃる?」
「いえ、今は離れております」
「でしたら丁度良いわ」

百華様が俺にしなだれかかる。俺の胸元に顔を寄せて体重をかけられれば、反射的に腕を回して抱き留める他無かった。

「ねえユヅルさん。私、貴方の事が可哀そうで仕方が無いの」
「……俺は、自分の境遇に納得しております」
「本当に?庭園でのお義姉様からの扱いは酷いものでしたわ。私、貴方をお義姉様から解放して差し上げたいの」

百華様が紅玉色の瞳を艶めかせて、上目遣いに俺を見つめる。
……この方は、何を言っているんだ?
俺は百華様の両肩に手を当てて、自分の体から引き離した。

「丁重にお断りさせて頂きます。見知らぬレディ」
「……え?」
「俺は意中の方の元へ向かう所ですので、手短に広間にご案内します。さあ、お手を」

手を伸ばすと、百華様は一瞬その情緒豊かな表情を消した。が、すぐに天女の様な完璧な笑みを浮かべる。

「エスコートして下さるなんてお優しいのですね。見知らぬ紳士様」

ここが仮面舞踏会を模した夜会で良かった。仮面一枚隔てた無礼講の場であれば、いくらでもしらを切れる。
百華様が俺の手を取る。俺達はそのまま、広間へと向かった。
『斉明寺 百華にはお気を付け下さい』
俺はそっと、清春の言葉を頭の中で反芻した。

広間の明かりが見える位置まで差し掛かった瞬間、ピクリと肌が粟立った。
視線が中庭に吸い寄せられる。自身に宿った妖力が、花印を付けた主の危機を伝えた。
——お嬢様が、俺を呼んでいる。
その事実を直感すると、俺は百華様の手を離した。

「……?どうしましたの?」
「広間はもう目の前で御座います。俺は急用を思い出しましたので、これで」
「えっ?……あ!ユヅルさん!?」

百華様の問いかけには聴こえない振りをして、俺は素早く踵を返す。
心臓が早鐘を打つ。お嬢様に何かあったのかと思うと、それだけで血が凍るような感覚が全身に走る。

「あらまあ。……どうぞ、お気をつけて」

冷たさを含んだ甘い声音を背に、俺は中庭を目指して駆け出した。



side澄華

「さあ澄華様。このままここで、僕と一夜を過ごしましょう」
「嫌だと、言っているでしょう……っ!!」

背筋に怖気が走って、強引に私との距離を詰めてくる夏生の胸を押し返す。
私は顔を伏せながら、心の中でユヅルを呼んだ。
今すぐここに来て!ユヅル……!!
その瞬間、私のレースの手袋越しの青百合の花印が蛍のように淡く輝き出した。
その輝きに導かれるように、一陣の風が庭園内を吹き抜ける。

「いかがでしょうか?澄華さ……っ!?」
「その必要は無い」

私と夏生の間に、鮮やかな浅葱色の着物の腕が割り込む。引き離された拍子にバランスを崩した私を、誰かが優しく抱き留めた。いいえ、誰か、なんて失礼だわ。私が呼んだのはたった一人しかいないもの。

「な、何者だ!?」

私と同じくバランスを崩して縁側に尻餅を付いた夏生が、目を白黒させて私達を見上げる。

「"何者"だと?……可笑しな事を言う」

私の頭上から降る凛とした声には確かな威圧感が滲む。浅葱色の着物も、月夜に光る銀糸の髪もユヅルの筈なのに、今の彼はどこか執事では無い——別人の様な雰囲気を纏っている。
どうしてそんな事を思うの?ユヅルが、いつもの敬語では無いから?

「ここは身分を気にせずに交流出来る場だ。ならば今の俺は何者でも無い。――そうだろう?」

ユヅルが夏生の手を振り払い、私の肩を抱く手に力を籠める。
密着した背中からユヅルの心臓が早鐘を打っている事が伝わる。……走って、来てくれたの?
ユヅルは揃いの羽織紐を見せつけるように私に体を寄せる。二つのイエローサファイアの羽織紐が、月の光に照らされて濡れた様な輝きを宿す。

「今宵の彼女のパートナーは俺だ。ご退席願おうか、見知らぬ紳士殿?」
「ひっ!?」

ユヅルに睨まれた夏生がびくりと両肩を震わせる。額から脂汗を流すと、そそくさと中庭から去っていった。
夏生の姿が完全に見えなくなると、私はユヅルの腕の中で細く息を吐きだした。

「……馳せ参じるのが遅くなり、申し訳ありません」
「そんな事無いわ。来てくれてありがとう」
「礼には及びません。……お嬢様?」

ユヅルが私から体を離そうとするのを、袖を軽く引っ張って押し留める。

「今夜は少し肌寒いわね。……少しの間、このままで居て頂戴」
「……承知致しました」

ユヅルの腕に包まれていると、さっきまでの緊張が嘘のように解れていく。夜も更けてこれだけ暗いのなら、仮面を付けていない私の事も覆い隠してくれるわ。
ユヅルが私に何かを聞く事は無かった。その配慮が、今の私には心地良い。
この夜会で実感した。半妖の肩身の狭さを。そして、自分の知らない水面下で斉明寺家が姿を変えようとしている事も。

「……やっぱり、西の統治はお父様には任せられないわ」

私の呟きが庭園に敷き詰められた砂利に吸い込まれていく。
お父様にも、ましてや夏生の手に渡るなんて到底許せない。あの者たちに任せっきりでは秩序も何もあったものでは無いわ。
私は暗夜に浮かぶ満月を見据え、決意を込めて喉を震わせた。

「私が完璧な、西の当主となってみせるわ」
「誠心誠意お仕え致します。お嬢様」

すっかり敬語に戻ったユヅルの物言いに、私は体を反転させて狐の仮面の下の滑らかな頬に触れた。

「あら、今夜の貴方は何者でも無いのではなかったかしら?」
「……これは失礼」

少しだけ砕けた言葉のユヅルに、私はふっと微笑む。
主人なのに、執事に敬語を外されて気分を良くするなんて可笑しいかしら?でも、仮面一枚隔てた今夜だけは無礼講よね。
私達はすっと体を離すと、ゆっくりと立ち上がった。

「そろそろ帰ろうと思うのだけれど、送って下さる?」
「光栄でございます」

手を差し出せば、恭しく腰を折ってその手を掬われる。
仮面の奥の瞳は月光を反射し、輝く月そのものの様に煌めいた。
薄い唇が、すうっと上品に弧を描く。

「麗しき紫水晶(アメジスト)淑女(レディ)。どうか俺に、貴女の星月夜の一欠片を頂けませんか?」
「ええ、喜んで」

エスコートの口説き文句としてはこの上ないわね。
私達は腕を絡ませたまま、人気の少なくなった極楽蓮華を後にした――。



side:百華

形だけ戻った広間は酔っ払い共がひしめき合って、ざわざわと下品な喧騒に包まれている。
少ししたらすぐに出ましょう。こんな酒気を帯びた空間なんて、華族のあたしには相応しくないわ。

「おやあ可憐なレディ!よろしければ私と一杯いかがですかな?」

顔を真っ赤にした酔っ払いを狐面の奥で睨みつける。
……でも、この男が高位の貴族である可能性は一応残っているわ。邪険に扱わない方が得策ね。
あたしは完璧な笑みを作って、男に応える。

「すみません、お酒は苦手ですの。……お酌でしたら是非」

手近なとっくりを持ってお猪口に注ぐと、男が気を良くしてさらに笑みを濃くした。

「おや、随分と手慣れていらっしゃいますね。まるで小間使いの様だ」

その言葉を聞いた瞬間とっくりがお猪口の端にぶつかって、中のお酒が数滴男の袴に跳ねた。

「あっ!ごめんなさい。やはり不慣れなものでして。……これで、失礼致しますわ」
「えっ?あっ!お嬢さん!?」

とっくりを音を立てて畳の上に残し、あたしは雑音に蓋をしながら広間から抜け出した。
襖一枚隔てた廊下はしんとしていて、人っ子一人居ない。
どうせ騒ぎたい人は広間に集まって、抜け出した人達は個室にでも引き籠っているんだわ。極楽蓮華はそういう場だもの。
あたしは人気の無い廊下の柱に手を付き、黒い漆の塗られた木製の柱にグッと爪を立てる。

「……汚らわしい」

汚らわしい、汚らわしい、汚らわしい。
廊下に滲む酒の匂いでさえ不快で仕方ない。舌打ちして、ギリギリと柱に爪を立てる。

「言うに事欠いて小間使いですって!?あたしを誰だと思っているの?西一番の華族、斉明寺家の娘よ」

あんな男、あたしよりも位の低い不細工の分際で。

「あたしはもう、あの頃のあたしじゃないの」

髪飾りには当然のように宝石があしらわれていて、シルク地の着物は月明かりを受けて淑やかに艶めく。
今のあたしはこんな上等な服を着て、沢山の使用人を侍らせるお嬢様なのよ。
この生活を維持する為ならなんだってやってやる。――その為には、あの女が邪魔だわ。
脳裏に深い艶を宿した紫紺の髪と、きつく吊り上がった藤色の瞳が過る。

「一人娘はあたし。家督を継ぐのもあたしよ」

だって今のあたしは"斉明寺"百華ですもの。
ふっと微笑んで柱から手を離し、行燈の無い廊下を真っすぐに進み続ける。
空気が重くなり、壁を埋め尽くすほどの重厚な扉が視界に入った。
両開きの扉の合わせ目にはびっしりと封印の護符が張られている。隣の立て看板をちらりと見る。

『コノ先罪人収監遊郭、徒花楼ニツキ許可無キ者ノ立チ入リヲ禁ズ』

「……うふふっ」

あたしは微笑みを讃えたままその護符に手を当てて自身の霊力を勢いよく流し込んだ。
ビリッと空気を切り裂くような音が鳴って護符が一斉に破れ、徒花楼へ続く扉が主人を迎え入れるように開き始める。
中から風が吹きすさび、あたしの上等な着物の裾を舞い上げる。

「ああ、やっとよ。はるばる戻って来た甲斐があったわ」

あたしは地下へ続く階段を軽やかに駆け降りる。
冷たい石畳に、濃くなる妖の気配。
左右に広がる低級の妖の牢なんて見向きもせずに、あたしは最奥まで小走りで駆けた。
その瞬間、カンテラの明かりがあたしの顔を照らした。……徒花楼の見張りの守衛ね。でも、これは好都合よ。

「失礼、お嬢さん。ここがどこかご存じで?」
「ええ、勿論ですわ」

怪訝そうな見張り番ににっこりと微笑んだ。あたしの鈴の音の様な声が、腐敗した空気を払う様に反響する。
徒花楼、最奥。最大規模の鉄製の牢屋の鉄格子がガシャリと音を立てる。
這い出ようとするその腕は、煤けた巨大な骨そのもの。
あたしは最奥の檻に収監されている――がしゃどくろを見つけて天女のように微笑んだ。

「ねえ守衛さん!私、あの子を身請けしたいの」
「え……?ですがお嬢さん。あれは……」
「ええ、莫大な金額だと存じております。でも私、お金なら十分持っていますの。……こちら、お近づきの印ですわ」

すり寄って夏生から貰ったアクセサリーを守衛の懐に入れる。
純金に大粒のダイヤの付いたブレスレットを見た瞬間、守衛の眉がピクリと跳ねた。
うふふっ。夏生さんったら毎日付け替えても足りないくらいのアクセサリーを贈って下さるんですもの。あたしも効率的に使わないとね。
お父様もお義姉様に充てるはずの政治資金をあたしに横流ししてくれるし。ああ本当に、斉明寺家のお嬢様って最高だわ。

「そちらは差し上げます。だから、私があの子を出獄させた事は内密にして頂けません?契約して頂けるなら、出獄のお金もすぐにお支払いしますわ」
「……そういう事でしたら、帳簿にも記さないでおきましょう。貴女の本気、よおく分かりましたとも」

守衛が懐にしっかりとブレスレットを仕舞い込む。あたしは目を細めて微笑んだ。

「はいっ!その為に、こんな醜悪な場所まで来ましたのよ?」
「ではこちらに。契約書に署名をお願い致します」

あたしは守衛の案内を受け、上等な和室に通される。
畳に腰掛けると、懐に忍ばせた風の護符で夜会に忍び込ませた侍女を呼びつける。少しすると、侍女が両手いっぱいに(けやき)の銭箱を持って現れた。それを守衛に渡し、中の金額を確認させる。

「……はい、確かに。ではこれで、がしゃどくろの主は正式に貴女様と相成ります」

守衛が部屋の奥から重厚な桐の箱を持ってくる。結び紐を開けて中に収められた黒い数珠を見た瞬間、あたしは更に笑みを深めた。
ああ、天にも昇るってこんな気持ちなのかしら?
守衛と侍女を引き連れ、あたしはがしゃどくろの牢の前に舞い戻った。

――ギ、ギィイイイイイ――!

鉄製の檻の隙間から、がしゃどくろが巨大な指骨を折り曲げる。頭蓋骨の洞穴が、あたしの顔を覗き込んだ。
あたしは優雅に微笑んで黒い数珠を腕に付ける。艶やかな数珠は、薄暗がりの中でもわずかな光を吸収して艶を放った。

「あなたの新たな主人は私よ」

あたしはがしゃどくろの指骨を掴み、自分の中の霊力をがしゃどくろに流し込む。
腕に付いた数珠が呼応する様に輝きを増し、黒曜石の様に煌めく。
がしゃどくろの体が軋みを上げ、金切り声が徒花楼全体に響き渡る。あたしの髪と着物が風ではためき、やがてゆっくりと鳴りを潜めた。
抵抗を止めたがしゃどくろに向かって、にっこりと花が綻ぶ様に笑いかける。

「さあ、私に従いなさい」

声をかけた瞬間、がしゃどくろの空洞の目の奥が赤く煌めいた。その光は、極楽蓮華を照らす月よりもよほど美しい。
あたしは両手を合わせてうっとりと目を細め、華族の娘らしくたおやかに微笑んだ。

「あなたに――殺して欲しい女が居るの」

To Be Continued……