【悪女の勅命】

side:澄華

斉明寺家の最奥、鍵が掛けられた重厚な木製の扉の合わせ目からは僅かに冷たい風が吹き抜ける。
扉の奥から感じる禍々しい気配に、私は結一郎さんの服の袖を無意識に掴んでいた。

「澄華様、俺も神祠御殿に足を踏み入れてよろしいのですか?」
「ええ。……一緒に居て欲しいの」
「勿論です」

そういえば、執事だったユヅルとは神祠御殿まで来た事は無かったわね。
ちらりと視線を投げた時、百華に刺された血の跡が見えた。

「それ……本当に大丈夫なの?」
「問題ありません。……それより、先程はすみませんでした」
「何かしら?」
「その……緊急だったとはいえ、貴女を呼び捨てにしてしまって」

ばつが悪そうに告げる結一郎さんに、私は目をぱちりと開いた。
そして、呼び捨てにされた事に何の抵抗も無かった自分にも驚いた。

「そんな事くらい何でもないわよ。むしろ、貴方は将来結ばれる相手に対して、いつまで執事の様に畏まっているつもりかしら?」
「それは……」
「もう私に敬語は要らないのよ?未来の旦那様」
「……」

結一郎さんがぎこちなく視線を下に向けた。
無理を言ってる自覚はあるわ。だってそれだけ長い間、彼は私の専属執事だったのだから。
私はくるりと踵を返して、錠前に鍵を差し込んだ。

「ごめんなさいね。困らせるつもりはなかった、の……」
「澄華」

結一郎さんが私の手を引く。
振り返った私は、手の甲に押し当てられた温かい感触に目を見開いた。
結一郎さんが少しだけ体を折って私の手の甲に口付ける。その行動は、いつも跪いてくれた執事の彼だったら絶対にしない事で。

「そう望むなら、これからはそう呼ばせて貰う」

蜂蜜色の瞳が甘やかに細められる。
私の鼓動が高鳴るのと同時に体に温かい霊気が流れ込んだ。私の手の甲に、目の覚めるような深い青百合の花印が浮かび上がる。
その花印に、私は自分が徒花楼に居た時の事を思い出した。

「ねえ、聞きたいのだけど。貴方、私に浄化の力を授けてくれたの?」
「……いいや。貴女の中には元々浄化の力はあった。俺はそれを開花させただけだ」

開花させる、だなんて簡単な事では無いわ。でも、彼の霊力がこの体に巡ると、私の心が満ち足りていくの。
私は胸の奥からこみ上げる気持ちのまま、手の甲の青百合に自身の唇を押し当てた。

「貴方に貰ったこの力は、何よりも大切にするわ」
「礼には及ばない。……俺は、意図的に少しづつ貴女に力を譲渡していたから」
「……そうなの?」
「ああ。——お嬢様が俺から離れられなければ良いなんて、そう思っていたのですよ?」

切り替わった敬語は、”ユヅル”に花印を付けられた事を思い出す。
縦長の瞳孔に彩られた瞳が、すうっと捕食者の様に細められる。

「お嬢様が思うよりずっと長い間……俺は貴女に執心していたのだから」

私の胸が高鳴って、頬に熱が集まる。
中々策士じゃない。じわじわと優しく浸食されていただなんて――毒蛇の様で愛らしいわ。
私の口角が無意識に上がる。乾いた喉から、上ずった言葉を吐き出す。

「……あら。私が今まで貴方の事を何とも思っていないと、本気でそう思っていたの?」

自分の心を曝け出すなんて、好意を伝えるなんて今までしてこなかったから、らしくなく緊張してしまう。
でも、この気持ちは今言わなければきっと後悔するわ。

「私もずっと、貴方に焦がれていたわよ」
「澄華……」
「さあ、そろそろ行きましょ。私の言葉の続きは、後で沢山言ってあげるから」

照れ隠しに振り返り様に微笑めば、結一郎さんがうっすらと頬を染めながら嗜虐的に微笑む。
ああ、素敵ね。執事の時は隠していたそんな表情を、これからも見続けていたいわ。
私は呼吸を整え、両開きの扉に手を押し当てて押した。

扉を開いた瞬間、ぶわりと一陣の風が吹き抜けて私の紫紺の髪を舞い上げる。
屋敷の最奥に座する庭園、神祠御殿。そこは、黒く淀んだ空気に支配されている。
和風の庭園を包む植栽は黒く染まり、剝き出しの岩肌に囲まれた水面は底無し沼の様に濁っている。
その庭園の中心に、黒い体毛の天狐様が力無く座している。

「天狐様!!」

真白だったはずの体毛は黒く染まり、光を宿さない瞳が黒ずんで私達を鋭く一瞥した。
私を丸呑み出来そうな程大きな口から覗く牙が、体毛の隙間から光る。天狐様が動く度に、庭園内に吹く風が刃となって、岩肌を瓦礫に変えていく。

「本来四神様は、めったにそのお姿を晒すことはありません。これほどの負の気を吸い込んで顕現するなど……」
「天狐様!私が今浄化し……ッ!?」
「っ、危ない!」

私が足を前に出すと、天狐様が高い鳴き声を放った。
風が刃となって私に襲い掛かる。結一郎さんが私の手を引いてくれたけれど、私の頬に風の刃が当たって僅かに血が滲む。

「下がっていてくれ、澄華」
「でもっ!天狐様の浄化ならば、私がやらないと!」
「……いいや、俺に任せてくれ」

結一郎さんが私を背に庇って前に出る。
庭園の淀んだ池に咲く睡蓮に視線を投げると、結一郎さんは口を開く。

「俺の後ろで霊花を生成していてくれ。――天狐様は、俺が浄化する」

ごうごうと風が吹き、結一郎さんの銀糸の髪を巻き上げる。
露になった頬の鱗が白く輝く。結一郎さんがすっと手を前に出すと、その手に握られていた投げ羽が青い輝きに包まれてその形を変える。
翡翠色に輝く弓矢が結一郎さんの前に顕現し、結一郎さんの持っていた投げ羽の矢柄(やがら)が伸びて弓と揃いの翡翠の矢となる。
天狐様に狙いを定め、弓の弦をギリギリと引き絞る。

「尊き御身の穢れは、俺が(はら)う」

矢が放たれ、風を切り裂いて天狐様の足元に付き刺さる。翡翠の光が足元を包み、闇溜まりのような漆黒の体毛が薄い灰色へと変貌する。結一郎さんを中心に清涼な風が吹き、二手三手と四肢を射抜く度に、その体毛は純白に戻ってゆく。
それは浄化の弓。
目を炯々(けいけい)と光らせていた天狐様の表情が和らいでゆく。

「……すごいわ」

私は泉の縁に膝を折って睡蓮を手折り、そこに霊力を籠めながら結一郎さんを見た。
彼の霊力がこれほどだなんて思わなかった。その弓を引き絞る立ち姿は、凛としていて美しい。

「……ッ」

天狐様の四肢を捕らえて五射目を引き絞ろうとした瞬間、結一郎さんの眉が僅かに細められる。元々白いその顔が薄く青ざめるのを見た瞬間、私は霊力を流し込んで青色の霊花に染まった睡蓮を抱えたまま駆け出した。

「結一郎さん!」

ごうごうと吹く風を切って結一郎さんの元へ行き、その背を支えるように寄り添う。

「澄華……っ!?」
「私も共に射るわ!」

矢の先端に霊花を添えると、溶け消えて矢の先端が夜の海の様な藍色に染まる。
結一郎さんの弓を引く手に自分の手を重ねると、金色の瞳と視線がかち合った。
首元の青百合の刻印が、私の鼓動に合わせて疼く。

「言ったでしょう?貴方に貰ったこの力は、何よりも大切にするって」

私の中に浄化の力があるならば、結一郎さんが開花させてくれたこの力を西の繁栄と天狐様に使いたい。
結一郎さんが縦長の瞳孔に彩られた瞳を細め、決意を込めて微笑んだ。

「……ああ、そうだな。共に行こう」

二人並んで天狐様に向かって弓を引き絞る。
天狐様の胸元に照準を合わせ、お互いの呼吸を合わせて弓を放った。

「貫け!!」

藍色の矢が吹き抜ける風の隙間を突いて天狐様の体に吸い込まれる。
突風が吹き、神祠御殿の花々を舞い上げる。それを目を瞑って耐える。
風が緩やかになったのを瞼の裏で感じて目を開けると、真白の体に戻った天狐様が静かなまなざしで私たちを見据えていた。
その瞳が、柔らかく細められる。

「天狐様……?」

私は結一郎さんから手を離すと、そよ風に誘われるように天狐様の元へ歩み寄った。
剥き出しの岩肌に膝を折り、自身の手を組んで天狐様を見上げる。

「天狐様。私の名は、斉明寺 澄華です」

乱れた髪を整えるのも忘れて輝く若草色の瞳を見つめると、浄化されて真白に染まった体毛が頷くように揺れる。
組んだ指先が、緊張でかすかに震える。

「あなた様の領地を守り、種族の隔たり無く暮らせる領地にしてみせます。どうかお認め下さい。――私を、次代の斉明寺の当主と」

若草色の瞳がすうっと細められると、天狐様が口を開いた。その瞬間、私の脳内に直接声が流れ込んでくる。

――ああ、いいでしょう。

「天狐、様……」

――澄華。私の愛し子。

そよ風が私の髪を優しく揺らす。
神祠御殿に花びらが舞い、私の頬を撫でて地に溶ける様に落ちた。

――貴女が、次代の斉明寺の当主です。

「っ……!」

その言葉を聞いた瞬間、胸に熱いものが込み上げて、思わず唇を噛んで堪える。
目に浮かびそうになる涙を堪え、立ち上がって翻った着物の裾を整えた。
胸に手を当てて腰を折る。そして、当主らしくはっきりと声を発した。

「斉明寺 澄華、謹んで拝命致します」

私の声が庭園に響いた瞬間、祝福するように清風が流れ込んだ。
清涼な風は、この地では天狐様の祝福を表す。
ざり、と地を踏みしめる音に振り返る。結一郎さんが微笑んでいた。清風でいつもは覆われている髪が流れて、頬の真珠の様な白色の鱗が露になっている。
結一郎さんが、恭しく腰を折った。

「おめでとうございます、澄華様」
「結一郎さんっ!」

駆け寄ってその背に手を回せば、広い胸が優しく抱き留めてくれる。
少し冷たい体温が、火照っていた私の体を冷やしてくれる。

「やはり貴女こそが、西の当主に相応しい」
「ありがとう……っ!。……ねえ、そんなに畏まらないで。貴方は私の婚約者じゃない」
「ああ、そうだな。……貴女と共にこの光景を見られて本当に、良か……っ」
「……結一郎、さん?」

不意に、体に掛かる重みを感じる。
結一郎さんが私に体重をかけて、肩口に顔を沈み込ませる。
呼吸が荒い。重なった胸元から感じる鼓動が早い。私は腹部に不自然な熱を感じて手を当てると、そこにはべったりと赤い血が付着していた。

「……え?」

結一郎さんの体がぐらりと揺れ、神祠御殿白砂に倒れ込む。
慌てて肩を抱いてその体を仰向けにする。腹部の百華に刺された傷口が開き、吸い込み切れなかった衣服から地面に血が流れむ。白砂が、じわじわと赤く染まってゆく。
長い前髪に覆われたその顔は、血の気が引いて青ざめていた。

「結一郎さん……?」

To Be Continued……