清春が用意してくれた紺色の和装に着替え、俺達はその足で極楽蓮華に向かった。
案内嬢にお目通りを願えばすぐに応じて貰えた。
会合用に密室に入った瞬間、社交パーティーのドレスのままの薫子が憔悴した表情で出迎えてくれた。
「ユヅルさん、清春さん……。この度は本当に、何と言ったらいいか……」
「お気遣いありがとうございます。……澄華様は、徒花楼に?」
「はい……。ユヅルさん、わたくしも澄華様がやったなどとは思っておりません。……ですが」
「分かっております。釈放しろなどと無理筋を通すつもりはありません」
澄華様は間違いなく冤罪であり、この事件の首謀者は百華だ。
だか当主の昭仁の名において命じられた以上、不用意に釈放出来無い事は重々承知している。
「正攻法で救い出します。それまでの間、澄華様を刑に処すのをお待ち頂く事は可能ですか?」
「正攻法とは……身受けされるという事でしょうか?お言葉ですがユヅルさん。澄華様には、過去最高額が付けられております。とても一介の執事に出せるような金額ではありません」
「承知の上です」
「ユヅルさん……」
じっと真剣なまなざしを不安げに揺れる薫子に向ける。
すると、根負けしたように薫子は細く息を吐き出した。
「……わたくしも、澄華様の断罪には強く疑問を呈しております。澄華様は公衆の面前で、あの様な事をする方ではありませんから」
薫子が俺を見つめ返す。その瞳には、俺と同じ縦長の瞳孔がうっすらと浮かんでいる。
「……一週間。それがわたくしに命じられる限界です。貴方は一週間で、澄華様を徒花楼からお救い出来ますか?」
「無論です」
俺の声が密室内に静かに反響する。
薫子は目を見開くと、ふっと口元を綻ばせた。
「どうやら貴方は、わたくしが思っていたよりもずっと意志のお強い方なのですね」
「……薫子さん。差し出がましいお願いかとは思いますが、これを」
俺は漆塗りの机に署名用紙と紙を滑らせ、その隣に隠し持っていた帳簿を並べた。
「澄華様の破門の撤回を求める署名です。こちらは、今回の社交パーティーで斉明寺家が招待状を送った方の一覧です。……署名活動に、ご協力頂く事は可能でしょうか?」
「これは……」
「一番上に書かれている署名は、俺の本名です」
薫子は署名用紙を手に取る。一番上の名前を見た瞬間、口元に手を当ててハッと目を見開いた。
動揺に揺れる瞳が、俺と署名用紙を交互に見る。
「……ゆ、ユヅルさん。これが、貴方の本名でお間違い無いの?」
「はい」
「ああ……っ、ああ!わたくしはとんでもない思い違いをしていたわ。貴方は……いいえ、貴方様は……!」
薫子が署名用紙から手を離して、畳に手を付いて頭を伏せようとする。俺はそれを片手で制した。
「お止め下さい薫子さん。俺に畏まる必要はありません」
「で、ですか……!」
「わっ、私も!私も署名出来ますか!?」
不意に密室の扉が開いた。そこから飛び込んで来たのは幼い小間使いだ。
その頭には白い耳が伸びている。おそらく、狐の半妖だろう。
「貴女、盗み聞きしていたの?」
「申し訳ありません薫子様!でも私、居ても立っても居られなくて!はっ、初めてだったんです!私が半妖だと分かっても優しくしてくれた人間の方は……澄華様だけなんですっ!」
「貴女……」
狐の小間使いは目に涙を貯めながら、畳に手をついて必死に頭を下げる。
薫子はそれを宥めながら、俺に体を向けた。
「署名の件は承知しました。全て、わたくしにおまかせ下さい」
「感謝申し上げます」
俺が頭を下げようとするのを、今度は薫子が制した。
「頭を下げないでくださいませ。……この場所で、お待ちしておりますわ」
「一週間以内には必ず戻って参ります。……行こう、清春」
「はい。ユヅル様」
俺は清春を連れ立って立ち上がり、薫子に一礼して極楽蓮華を後にした。
ここは秘密裏に人と妖が手を取り合って働く、西では極めて稀有な場所だ。澄華様と薫子が必死で守り抜いてきたこの場所を、昭仁や夏生の好きにさせる訳にはいかない。
「澄華様……」
振り返り、赤い塗装の施された極楽蓮華を見る。
本当は今すぐにでも会いに行きたい。だが、今の俺が行った所で何の解決にもならない。これが、今俺が西で出来る精一杯だ。
俺は極楽蓮華を背に、日が昇り始める白んだ空を見つめた。
ビュウウッと一陣の風が吹く。昨夜よりも明確に強さを増したそれに、俺は眉をひそめた。
天を仰いだ瞬間、鼻先に一筋の雨粒が弾けた。――雨だ。
雨脚が強まり、西の地に霧雨が降り注ぐ。柔らかくも量の多い雨が視界を白く濁らせる。
西でこんな雨を見るのは珍しい。これではまるで、東の地だ。
俺は冷たい霧雨に打たれるのも構わず、清春に視線を送る。
「清春。今から、壬生領に案内してくれないか?」
「……えっ!?」
「俺の故郷へ――東の壬生家に戻る」
「お、仰せのままに!」
俺は一度きつく目を閉じて、雨粒を弾くように強く目を開けた。そして、東に向かって歩みを進めた。
戻らなくてはならない。澄華様の専属執事では無い俺に。
本当の俺に。
東の華族、壬生家の嫡男――壬生 結一郎に。
◇
「……ああ、久しいな」
俺は泥の様にぬかるんだ地に足を付ける。
東の地、壬生領。
久方ぶりに戻った東の地には冷たい雨が降り注いでいる。しとしとと降る霧のような雨に目を細める。
霧雨は嫌な事を思い出すから好きではない。
俺が東の地を追いやられたあの日も、こんな重苦しい霧雨だった――。
◆
「ヒッ!なんておぞましい……!」
生まれて初めて聞いた声は、畏怖の悲鳴だった。
生まれつき頬に走る白色の鱗。妖との不貞を疑われた母は最期まで否定していたが、父と会う事も叶わずに離れに軟禁されてしまった。
「お願い信じて。あなたは私とあの人の息子。私は決して、不貞など働いていないわ」
母は水分の無い枯れ枝の様な腕で、それでも俺をきつく抱きしめてくれた。
「ごめんなさい結一郎……。私のせいで、ごめんなさい……!」
俺はどうしていいか分からなくて、そんな母に寄り添う事しか出来なかった。
母はやがて憔悴し、俺が三つの時に亡くなってしまった。
母が亡くなっても俺は離れから外に出る事は叶わず、軟禁状態のまま過ごしていた。
櫛すら満足に与えられない銀髪はくすんだ灰色に。
白い鱗を隠す為に伸ばされた前髪は、重苦しく俺の視界を覆った。
そんな折。再婚した母が俺の弟、結次を出産した。
結次は母屋で当主として皆の寵愛を受けて育てられた。成長した結次は、離れに来ては度々俺を蔑む様になった。
「貴方はこの家の汚点だ。貴方が息を吸う事すら不快なんですよ」
「結次。……ッ」
ざく、と俺の頬がペーパーナイフで切り付けられる。それが見る間に塞がるのを、空色の瞳が不快感を表すように細められる。輝く銀髪を優雅になびかせながら、結次が俺を見下ろす。
「あ~あ醜いなあ。半妖なんて生きているだけで不自由で嫌になっちゃうよね?――早く死ねよ」
「……」
「こんな事しても反発しないんだ?木偶の坊と変わらないよね、兄様は」
こんな事は日常茶飯事だった。
俺一人の離れに使用人は当てられないから、いつしか身の回りの事は全て自分でやるようになった。
だか、蔑まれるくらいならいっそ一人で居た方が気が楽だ。
自炊も勉強も弓術も、何も苦にはならないから。
「なあにあのみすぼらしい姿。とても華族とは思えない。まるで使用人よ」
分家の揶揄する言葉にも心は動く事は無い。
ただ心を殺し、何も反論せずにやり過ごせばそれでいい。
華族として生を受けたからには、この東の為に従事する。それが、俺の生きる唯一の理由だった。
「龍神様、本日もご加護をありがとうございます」
俺は自室で膝を折って、龍神様の居る神祠御殿に向かって祈りを捧げる。
毎日龍神様に祈りを捧げ、淡々と自分のやるべきことをこなせばいい。
「あ~、めんどくさい!兄様これやっておいて。暇なんだからいいでしょ?」
「分かった」
離れに来た結次に、領地の帳簿や土地債券の資料を投げ渡される。
それをこなす内に、いつしか俺は東の公務のほとんどを担当する事になっていた。だが領地改革の金は全て弟の手柄にされ、俺には一銭も入らなかった。
別に構わない。むしろ華族として東の地の為に出来る事があるなら、積極的に行いたい。
そんなある日、学校からの帰り道。
禍々しい程に赤い夕陽が滲む様に広かる夕暮れ。俺は化け蜘蛛の妖に誰かが襲われているのを見つけた。
「……っ、伏せろ!!」
俺は懐から投げ羽を取り出し、化け蜘蛛に向かって投擲した。
的確に急所を刺された化け蜘蛛はびくりと体を震わせ、やがてぐるりと横転して灰と化した。
「無事か?」
「はっ、はい……!」
俺の手をおずおずと掴んだ時に着物がめくれる。そこには、いくつもの瞼が埋め込まれていた。
「……お前、サトリの妖か?」
「そうです。あのっ、ありがとうございました!なにかその、お礼を……」
「止めておけ。俺とは関わらない方が良い」
「そ、そんな……!」
今思い返せば、この時助けた妖は年端もいかない清春だ。
俺は銀色の髪越しに、白い鱗に手を押し当てた。
「俺は呪われた存在だ。だから、今日の事は忘れてくれ」
「……でしたら!どこかで必ず、この恩を返します!」
「そんな気を遣う必要は……」
「おっしゃる通り僕はサトリです。戦闘は不得意ですが、東西南北全ての情報を収集する事には長けています。情報が役立つ瞬間は、いつか必ず訪れます!」
「……そこまで言うならば、その言葉に甘えさせてもらう。……あり、がとう」
必死に告げるサトリの少年に、俺はぎこちない微笑みを浮かべようとした。だが、口角が上手く上がらなかった。
きっと酷い顔になっている。生まれてから一度も、笑顔など浮かべた事が無かったから。
「またいずれお会いしましょう。僕は、どこに居ても貴方様を見つけられますから」
俺はサトリの少年と別れると、足取り重く帰路についた。
空を見上げると、今にも雨が降りそうな暗雲が立ち込めている。
ああ、まただ。
ここ数年、東の地が雲に覆われて太陽が覗かない事が増えた。
初めは気のせい。だが、次第にそうも言っていられなくなった。
日を隠し、雨が壬生領を覆う。それはまことしやかに、龍神様の機嫌が悪いのだと噂され始めた――。
◇
今日の壬生領は騒がしい。年に一度の、御神楽舞の日だからだ。
本当は俺も舞で龍神様に感謝の意を伝えたい。だが、俺は許可なく離れから出る事は禁じられている。
「龍神様、本日もご加護をありがとうございます」
いつもの様に手を合わせて祈りを捧げている最中、バンッと乱雑に自室の扉が開かれた。
そこには数年顔を合わせる事が無かった――壬生家当主である、父の姿があった。
「お父、様……?」
「結一郎」
威厳のある声が俺を呼び、皺が刻まれた目元からは不機嫌を露にした青色の双眸が覗く。
俺はすぐさま膝を折って、畳に顔を伏せた。
「結次の御神楽舞では空が晴れない」
「左様、ですか……」
「お前もやってみろ。汚らわしい半妖とはいえ貴様にも壬生の血は流れている。今すぐに神祠御殿に向かえ」
「畏まりました」
俺は顔を上げて、お父様に付き従った。
神祠御殿の御神楽舞。
この日が、俺の霧雨の様な人生の転機となる――。
To Be Continued……
案内嬢にお目通りを願えばすぐに応じて貰えた。
会合用に密室に入った瞬間、社交パーティーのドレスのままの薫子が憔悴した表情で出迎えてくれた。
「ユヅルさん、清春さん……。この度は本当に、何と言ったらいいか……」
「お気遣いありがとうございます。……澄華様は、徒花楼に?」
「はい……。ユヅルさん、わたくしも澄華様がやったなどとは思っておりません。……ですが」
「分かっております。釈放しろなどと無理筋を通すつもりはありません」
澄華様は間違いなく冤罪であり、この事件の首謀者は百華だ。
だか当主の昭仁の名において命じられた以上、不用意に釈放出来無い事は重々承知している。
「正攻法で救い出します。それまでの間、澄華様を刑に処すのをお待ち頂く事は可能ですか?」
「正攻法とは……身受けされるという事でしょうか?お言葉ですがユヅルさん。澄華様には、過去最高額が付けられております。とても一介の執事に出せるような金額ではありません」
「承知の上です」
「ユヅルさん……」
じっと真剣なまなざしを不安げに揺れる薫子に向ける。
すると、根負けしたように薫子は細く息を吐き出した。
「……わたくしも、澄華様の断罪には強く疑問を呈しております。澄華様は公衆の面前で、あの様な事をする方ではありませんから」
薫子が俺を見つめ返す。その瞳には、俺と同じ縦長の瞳孔がうっすらと浮かんでいる。
「……一週間。それがわたくしに命じられる限界です。貴方は一週間で、澄華様を徒花楼からお救い出来ますか?」
「無論です」
俺の声が密室内に静かに反響する。
薫子は目を見開くと、ふっと口元を綻ばせた。
「どうやら貴方は、わたくしが思っていたよりもずっと意志のお強い方なのですね」
「……薫子さん。差し出がましいお願いかとは思いますが、これを」
俺は漆塗りの机に署名用紙と紙を滑らせ、その隣に隠し持っていた帳簿を並べた。
「澄華様の破門の撤回を求める署名です。こちらは、今回の社交パーティーで斉明寺家が招待状を送った方の一覧です。……署名活動に、ご協力頂く事は可能でしょうか?」
「これは……」
「一番上に書かれている署名は、俺の本名です」
薫子は署名用紙を手に取る。一番上の名前を見た瞬間、口元に手を当ててハッと目を見開いた。
動揺に揺れる瞳が、俺と署名用紙を交互に見る。
「……ゆ、ユヅルさん。これが、貴方の本名でお間違い無いの?」
「はい」
「ああ……っ、ああ!わたくしはとんでもない思い違いをしていたわ。貴方は……いいえ、貴方様は……!」
薫子が署名用紙から手を離して、畳に手を付いて頭を伏せようとする。俺はそれを片手で制した。
「お止め下さい薫子さん。俺に畏まる必要はありません」
「で、ですか……!」
「わっ、私も!私も署名出来ますか!?」
不意に密室の扉が開いた。そこから飛び込んで来たのは幼い小間使いだ。
その頭には白い耳が伸びている。おそらく、狐の半妖だろう。
「貴女、盗み聞きしていたの?」
「申し訳ありません薫子様!でも私、居ても立っても居られなくて!はっ、初めてだったんです!私が半妖だと分かっても優しくしてくれた人間の方は……澄華様だけなんですっ!」
「貴女……」
狐の小間使いは目に涙を貯めながら、畳に手をついて必死に頭を下げる。
薫子はそれを宥めながら、俺に体を向けた。
「署名の件は承知しました。全て、わたくしにおまかせ下さい」
「感謝申し上げます」
俺が頭を下げようとするのを、今度は薫子が制した。
「頭を下げないでくださいませ。……この場所で、お待ちしておりますわ」
「一週間以内には必ず戻って参ります。……行こう、清春」
「はい。ユヅル様」
俺は清春を連れ立って立ち上がり、薫子に一礼して極楽蓮華を後にした。
ここは秘密裏に人と妖が手を取り合って働く、西では極めて稀有な場所だ。澄華様と薫子が必死で守り抜いてきたこの場所を、昭仁や夏生の好きにさせる訳にはいかない。
「澄華様……」
振り返り、赤い塗装の施された極楽蓮華を見る。
本当は今すぐにでも会いに行きたい。だが、今の俺が行った所で何の解決にもならない。これが、今俺が西で出来る精一杯だ。
俺は極楽蓮華を背に、日が昇り始める白んだ空を見つめた。
ビュウウッと一陣の風が吹く。昨夜よりも明確に強さを増したそれに、俺は眉をひそめた。
天を仰いだ瞬間、鼻先に一筋の雨粒が弾けた。――雨だ。
雨脚が強まり、西の地に霧雨が降り注ぐ。柔らかくも量の多い雨が視界を白く濁らせる。
西でこんな雨を見るのは珍しい。これではまるで、東の地だ。
俺は冷たい霧雨に打たれるのも構わず、清春に視線を送る。
「清春。今から、壬生領に案内してくれないか?」
「……えっ!?」
「俺の故郷へ――東の壬生家に戻る」
「お、仰せのままに!」
俺は一度きつく目を閉じて、雨粒を弾くように強く目を開けた。そして、東に向かって歩みを進めた。
戻らなくてはならない。澄華様の専属執事では無い俺に。
本当の俺に。
東の華族、壬生家の嫡男――壬生 結一郎に。
◇
「……ああ、久しいな」
俺は泥の様にぬかるんだ地に足を付ける。
東の地、壬生領。
久方ぶりに戻った東の地には冷たい雨が降り注いでいる。しとしとと降る霧のような雨に目を細める。
霧雨は嫌な事を思い出すから好きではない。
俺が東の地を追いやられたあの日も、こんな重苦しい霧雨だった――。
◆
「ヒッ!なんておぞましい……!」
生まれて初めて聞いた声は、畏怖の悲鳴だった。
生まれつき頬に走る白色の鱗。妖との不貞を疑われた母は最期まで否定していたが、父と会う事も叶わずに離れに軟禁されてしまった。
「お願い信じて。あなたは私とあの人の息子。私は決して、不貞など働いていないわ」
母は水分の無い枯れ枝の様な腕で、それでも俺をきつく抱きしめてくれた。
「ごめんなさい結一郎……。私のせいで、ごめんなさい……!」
俺はどうしていいか分からなくて、そんな母に寄り添う事しか出来なかった。
母はやがて憔悴し、俺が三つの時に亡くなってしまった。
母が亡くなっても俺は離れから外に出る事は叶わず、軟禁状態のまま過ごしていた。
櫛すら満足に与えられない銀髪はくすんだ灰色に。
白い鱗を隠す為に伸ばされた前髪は、重苦しく俺の視界を覆った。
そんな折。再婚した母が俺の弟、結次を出産した。
結次は母屋で当主として皆の寵愛を受けて育てられた。成長した結次は、離れに来ては度々俺を蔑む様になった。
「貴方はこの家の汚点だ。貴方が息を吸う事すら不快なんですよ」
「結次。……ッ」
ざく、と俺の頬がペーパーナイフで切り付けられる。それが見る間に塞がるのを、空色の瞳が不快感を表すように細められる。輝く銀髪を優雅になびかせながら、結次が俺を見下ろす。
「あ~あ醜いなあ。半妖なんて生きているだけで不自由で嫌になっちゃうよね?――早く死ねよ」
「……」
「こんな事しても反発しないんだ?木偶の坊と変わらないよね、兄様は」
こんな事は日常茶飯事だった。
俺一人の離れに使用人は当てられないから、いつしか身の回りの事は全て自分でやるようになった。
だか、蔑まれるくらいならいっそ一人で居た方が気が楽だ。
自炊も勉強も弓術も、何も苦にはならないから。
「なあにあのみすぼらしい姿。とても華族とは思えない。まるで使用人よ」
分家の揶揄する言葉にも心は動く事は無い。
ただ心を殺し、何も反論せずにやり過ごせばそれでいい。
華族として生を受けたからには、この東の為に従事する。それが、俺の生きる唯一の理由だった。
「龍神様、本日もご加護をありがとうございます」
俺は自室で膝を折って、龍神様の居る神祠御殿に向かって祈りを捧げる。
毎日龍神様に祈りを捧げ、淡々と自分のやるべきことをこなせばいい。
「あ~、めんどくさい!兄様これやっておいて。暇なんだからいいでしょ?」
「分かった」
離れに来た結次に、領地の帳簿や土地債券の資料を投げ渡される。
それをこなす内に、いつしか俺は東の公務のほとんどを担当する事になっていた。だが領地改革の金は全て弟の手柄にされ、俺には一銭も入らなかった。
別に構わない。むしろ華族として東の地の為に出来る事があるなら、積極的に行いたい。
そんなある日、学校からの帰り道。
禍々しい程に赤い夕陽が滲む様に広かる夕暮れ。俺は化け蜘蛛の妖に誰かが襲われているのを見つけた。
「……っ、伏せろ!!」
俺は懐から投げ羽を取り出し、化け蜘蛛に向かって投擲した。
的確に急所を刺された化け蜘蛛はびくりと体を震わせ、やがてぐるりと横転して灰と化した。
「無事か?」
「はっ、はい……!」
俺の手をおずおずと掴んだ時に着物がめくれる。そこには、いくつもの瞼が埋め込まれていた。
「……お前、サトリの妖か?」
「そうです。あのっ、ありがとうございました!なにかその、お礼を……」
「止めておけ。俺とは関わらない方が良い」
「そ、そんな……!」
今思い返せば、この時助けた妖は年端もいかない清春だ。
俺は銀色の髪越しに、白い鱗に手を押し当てた。
「俺は呪われた存在だ。だから、今日の事は忘れてくれ」
「……でしたら!どこかで必ず、この恩を返します!」
「そんな気を遣う必要は……」
「おっしゃる通り僕はサトリです。戦闘は不得意ですが、東西南北全ての情報を収集する事には長けています。情報が役立つ瞬間は、いつか必ず訪れます!」
「……そこまで言うならば、その言葉に甘えさせてもらう。……あり、がとう」
必死に告げるサトリの少年に、俺はぎこちない微笑みを浮かべようとした。だが、口角が上手く上がらなかった。
きっと酷い顔になっている。生まれてから一度も、笑顔など浮かべた事が無かったから。
「またいずれお会いしましょう。僕は、どこに居ても貴方様を見つけられますから」
俺はサトリの少年と別れると、足取り重く帰路についた。
空を見上げると、今にも雨が降りそうな暗雲が立ち込めている。
ああ、まただ。
ここ数年、東の地が雲に覆われて太陽が覗かない事が増えた。
初めは気のせい。だが、次第にそうも言っていられなくなった。
日を隠し、雨が壬生領を覆う。それはまことしやかに、龍神様の機嫌が悪いのだと噂され始めた――。
◇
今日の壬生領は騒がしい。年に一度の、御神楽舞の日だからだ。
本当は俺も舞で龍神様に感謝の意を伝えたい。だが、俺は許可なく離れから出る事は禁じられている。
「龍神様、本日もご加護をありがとうございます」
いつもの様に手を合わせて祈りを捧げている最中、バンッと乱雑に自室の扉が開かれた。
そこには数年顔を合わせる事が無かった――壬生家当主である、父の姿があった。
「お父、様……?」
「結一郎」
威厳のある声が俺を呼び、皺が刻まれた目元からは不機嫌を露にした青色の双眸が覗く。
俺はすぐさま膝を折って、畳に顔を伏せた。
「結次の御神楽舞では空が晴れない」
「左様、ですか……」
「お前もやってみろ。汚らわしい半妖とはいえ貴様にも壬生の血は流れている。今すぐに神祠御殿に向かえ」
「畏まりました」
俺は顔を上げて、お父様に付き従った。
神祠御殿の御神楽舞。
この日が、俺の霧雨の様な人生の転機となる――。
To Be Continued……



