ひと雫の魔法

 その日の朝は寒かった。

 二月。春の訪れる前のこの時期が、一番寒いといえるかもしれない。
 やがて寒い日と暖かい日を繰り返して、春になる。けれど、まだそんな春が来るとは思えないような日だった。

 彼女はいつもと同じくらいの時間にホームに上がってきた。どことなく彼女の頬は赤らんでいるように見えた。

 風邪でも引いてるのではないか。大丈夫だろうか。

 俺が心配しながら見守る中、彼女はいつも電車を待つ場所への歩みをふと止めた。

 珍しい。

 こんなに見ていては視線に気づかれると思いつつも、俺は彼女から目が離せなかった。
 彼女が俺のほうを見る。いつものように会釈をするのだろうと俺が頭を下げたそのとき。
 彼女はお辞儀をせずに俺の目をまっすぐに見つめた。俺は動揺して目を逸らそうとしたが、彼女の真剣すぎる目に囚われたように動けなくなった。

 彼女は少し眉を寄せて、唇を軽く噛んで、ちょっと困ったような顔をして歩いてくる。そして俺の前で歩みを止めた。

 俺の心臓が跳ね上がる。

 な、なんだ?

 俺は彼女と同様に困惑した。彼女は黙ったまま俺を見上げている。決意にも似た強い光を目に湛えて。

 電車がこのままでは来てしまう。

  俺は黙っている彼女の代わりに声をかけるしかなかった。

「えっと、どうした? 何かあった? 顔が赤いけど、体調悪いんじゃ……」

 俺が口を開くと言葉が白く染まった。
 彼女は今度は怒ったような顔になって頭を左右に振った。真っ直ぐな黒い髪がさらさらと揺れる。

「えーっと、じゃあ、何? もうすぐ電車来るけど」

 俺はますます困ってそう言った。 言って、あまりにも素っ気ない言い方になったことを後悔した。

 彼女は、一瞬泣きそうな顔をしてうつむくと、鞄から何かを取り出した。そしてそれをぐいと俺に押し付けた。

「え? 何? これ俺に?」

 俺は混乱したまま、それを受け取る形になった。

 彼女は俺の言葉に答えることなく脱兎のごとく走ると、いつもの場所に戻ってしまった。 そして、電車が来るやいなや、電車に乗ってしまった。 
 
 俺はそれをぽかんと眺めていた。電車の窓から見える彼女を訳がわからないまま見送り、電車を乗り過ごした。

 な、何だったんだ?

 俺は手に残った物を見た。可愛らしくラッピングされたそれに貼ってあったシールを見て、俺は初めてその日が何の日であったかやっと気づいた。

 バレンタインデー。俺の一年でもっともうんざりする日だった。