無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

「花嫁候補と呼んだことがあったな」

朔夜さまが、低く言った。

私は驚いて顔を上げた。

「はい」

あの夜、屋敷の前で告げられた言葉。

私を冷たい視線から守るための、黒い壁のような言葉だった。

朔夜さまは、少しだけ目を伏せた。

「今のお前は、候補などではない」

胸が、静かに鳴った。

「俺の側薬師だ。唯一、俺の禍に手を伸ばす者だ」

私は頷いた。

「私は、朔夜さまの側に立ちます」

月の光が、私たちの手の上に落ちていた。

重ねた手の下で、朔夜さまの脈が打っている。その脈に、私の指が触れている。呼吸は少しずつ合っていき、黒い禍は深いところで静かに沈んでいた。

孤独は、完全に消えたわけではないのかもしれない。
長い間、一人で抱えてきた夜は、たった一つの誓いで明けるものではない。
それでも、今夜からは、同じ夜を二人で歩く。

私は胸元の母の小袋に触れた。

その時だった。

小袋の裏に刺された薄墨の印が、月の光ではない淡い光を帯びた。

ほんの一瞬。

欠けた月の印が、青白く息をしたように見えた。

私は息を呑んだ。

朔夜さまも、その小さな光に気づいたのか、私の胸元へ視線を落とした。

「今のは」

「……分かりません」

私は正直に答えた。

薄墨家のことも、母の遺したものも、まだ何も知らない。

けれど、それはもう恐ろしいだけの謎ではなかった。

朔夜さまの手が、私の手を包んだままだったから。

「分からぬなら、これから調べればいい」

朔夜さまは言った。

その言葉に、私は小さく笑った。

「はい」

竹林が月光の中で鳴っている。
古い鳥居も、手水鉢も、清い香も、薄墨の印も、すべてが夜に包まれていた。けれど、その夜は、もう私たちを一人にする夜ではなかった。

朔夜さまが隣にいる。
そして私も、朔夜さまの隣にいる。