夜。
月下の社へ向かう竹林は、銀の息をしていた。
昼間の御前が嘘のように、城下の音は遠い。竹の葉が月光を受けて白く光り、風が通るたび、さらさらと細い水のような音を立てる。土は冷たく湿り、苔の匂いが足元から上がった。
社守の水緒が、拝殿の前で私たちを待っていた。
「お越しになりましたな」
その声は、竹林の音に溶けるほど静かだった。
「禍封じの契りは、禍を一人に背負わせぬための、古い誓いでございます」
水緒は手水鉢を示した。
私と朔夜さまは、冷たい水で手を清めた。
水は指先を刺すほど冷たかった。けれど、その冷たさが昼間の灰や薬湯や恐れを、少しだけ洗い流してくれる気がした。手を拭う布は白く、月光を含んで青く見えた。
拝殿には、清い香が焚かれていた。
白檀の重い甘さではない。蘇葉と月草を合わせたような、青く澄んだ香。吸い込むと胸の奥に細い道が開く。強すぎず、隠さず、ただ空気を清めるための香だった。
水緒は古い箱から、小さな布を取り出した。
そこには、薄墨の印が描かれていた。
欠けた月のような丸。三本の草葉の線。
胸元の小袋が、かすかに温かくなった気がした。
「ここに手を」
水緒に促され、朔夜さまは右手を差し出した。
私はその手首に触れた。
剣を握る人の硬い手。皮膚の下に、黒い禍が残っている。御前で妖を斬った時に引き受けたもの。これまで幾度も一人で抱えてきたもの。深く沈み、時おり脈に絡み、夜になると呼吸を奪うもの。
脈と呼吸を合わせる。
吸う。
吐く。
朔夜さまの呼吸は、初めは少し固かった。弱さを人前に差し出すことに、まだ慣れていないのだろう。けれど私が自分の息をゆっくり整えると、少しずつ重なってくる。
黒い禍が、指先の下で蠢いた。
けれど、昼間のように暴れてはいない。
清い香と、湯と、布と、脈と、呼吸。
それらが細い輪になって、黒い流れを囲む。完全に消すことはできない。私は、まだそこまでの力を持たない。薄墨家のことも、母のことも、知らないことばかりだ。
それでも、黒い筋の端が少しだけ緩む。
朔夜さまの肩から、力が抜けた。
「……消えはしないな」
「はい」
私は正直に答えた。
「でも、暴れすぎないようにはできます。少しずつ、診て、払って、整えます。今日のように、朔夜さまが立てるところまで」
朔夜さまは私を見た。
月光がその瞳の中に落ちて、夜の底に小さな灯をともしたように見えた。
水緒が静かに言った。
「では、誓いの言葉を」
月下の社へ向かう竹林は、銀の息をしていた。
昼間の御前が嘘のように、城下の音は遠い。竹の葉が月光を受けて白く光り、風が通るたび、さらさらと細い水のような音を立てる。土は冷たく湿り、苔の匂いが足元から上がった。
社守の水緒が、拝殿の前で私たちを待っていた。
「お越しになりましたな」
その声は、竹林の音に溶けるほど静かだった。
「禍封じの契りは、禍を一人に背負わせぬための、古い誓いでございます」
水緒は手水鉢を示した。
私と朔夜さまは、冷たい水で手を清めた。
水は指先を刺すほど冷たかった。けれど、その冷たさが昼間の灰や薬湯や恐れを、少しだけ洗い流してくれる気がした。手を拭う布は白く、月光を含んで青く見えた。
拝殿には、清い香が焚かれていた。
白檀の重い甘さではない。蘇葉と月草を合わせたような、青く澄んだ香。吸い込むと胸の奥に細い道が開く。強すぎず、隠さず、ただ空気を清めるための香だった。
水緒は古い箱から、小さな布を取り出した。
そこには、薄墨の印が描かれていた。
欠けた月のような丸。三本の草葉の線。
胸元の小袋が、かすかに温かくなった気がした。
「ここに手を」
水緒に促され、朔夜さまは右手を差し出した。
私はその手首に触れた。
剣を握る人の硬い手。皮膚の下に、黒い禍が残っている。御前で妖を斬った時に引き受けたもの。これまで幾度も一人で抱えてきたもの。深く沈み、時おり脈に絡み、夜になると呼吸を奪うもの。
脈と呼吸を合わせる。
吸う。
吐く。
朔夜さまの呼吸は、初めは少し固かった。弱さを人前に差し出すことに、まだ慣れていないのだろう。けれど私が自分の息をゆっくり整えると、少しずつ重なってくる。
黒い禍が、指先の下で蠢いた。
けれど、昼間のように暴れてはいない。
清い香と、湯と、布と、脈と、呼吸。
それらが細い輪になって、黒い流れを囲む。完全に消すことはできない。私は、まだそこまでの力を持たない。薄墨家のことも、母のことも、知らないことばかりだ。
それでも、黒い筋の端が少しだけ緩む。
朔夜さまの肩から、力が抜けた。
「……消えはしないな」
「はい」
私は正直に答えた。
「でも、暴れすぎないようにはできます。少しずつ、診て、払って、整えます。今日のように、朔夜さまが立てるところまで」
朔夜さまは私を見た。
月光がその瞳の中に落ちて、夜の底に小さな灯をともしたように見えた。
水緒が静かに言った。
「では、誓いの言葉を」



