「まだやるべきことがある」
その言葉に、私は周囲を見た。
御前の中庭は、嵐の後のようだった。
香炉は封じられ、薬湯の椀は片づけられ、倒れた者たちは静かな部屋へ運ばれた。幸い、息を失った者はいない。けれど、人々の顔には恐怖が残っている。藩主の簾の向こうも、重い沈黙に包まれていた。
千景は、まだ座り込んでいる。
妖が消えた今、彼女を覆っていた甘い靄はもうない。残ったのは、乱れた小袖と、震える手と、取り繕えなくなった顔だけだった。
「私は……私は、朝霧堂のために……」
彼女は同じ言葉を繰り返していた。
父は、そんな千景を見る目を失っているようだった。継母は何度も何かを言いかけて、口を閉じる。誠一郎さまは青ざめ、千景の名を呼ぶことすらできないでいる。
すべてを、御前で明らかにしなければならない。
私は濡れた布を握り直した。
指先はまだ冷えている。耳元には妖の声の名残が残っている。けれど、もう甘い焦げ香はしなかった。
「御前へ出る」
朔夜さまが言った。
「私も、話します」
私は頷いた。声は震えなかった。
少し前の私なら、人前で自分の見たものを言うなどできなかった。笑われ、否定され、踏みにじられるのが怖くて、喉が閉じたはずだ。
でも今、朔夜さまが隣にいる。
私の見た黒い筋を信じ、私の指示に刃を預け、妖の芯を斬ってくれた人がいる。
私一人では、妖を倒せなかった。
朔夜さま一人では、斬った禍に呑まれていた。
二人でなければ、ここまで来られなかった。
私はそれを、体の奥で知った。
「薬帳も、小瓶も、香包みも、灰も……千景の言葉も。私が見たものと、皆が見たものを合わせて、御前で真実を明かします」
朔夜さまが私を見た。
黒い筋の残る首筋。汗に濡れた髪。まだ苦しみを隠しきれていない横顔。それでも、その目には静かな光があった。
「恐れぬのか」
「恐れています」
私は正直に答えた。
「でも、もう見なかったことにはしません」
風が白幕を揺らした。
焦げ香の消えた中庭に、春の冷たい空気が流れる。どこか遠くで、患者に湯を飲ませる薬師の声がした。誰かが泣き、誰かが祈るように息を吐く。
朔夜さまは、短く頷いた。
「ならば行くぞ、小夜」
「はい、朔夜さま」
御前の場には、まだ語られるべき真実が残っている。
千景の罪も、朝霧堂の名の下に隠された毒も、歪められた薄墨の印も、そして私がずっと見てきた黒いものも。
逃げずに、言葉にしなければならない。
その言葉に、私は周囲を見た。
御前の中庭は、嵐の後のようだった。
香炉は封じられ、薬湯の椀は片づけられ、倒れた者たちは静かな部屋へ運ばれた。幸い、息を失った者はいない。けれど、人々の顔には恐怖が残っている。藩主の簾の向こうも、重い沈黙に包まれていた。
千景は、まだ座り込んでいる。
妖が消えた今、彼女を覆っていた甘い靄はもうない。残ったのは、乱れた小袖と、震える手と、取り繕えなくなった顔だけだった。
「私は……私は、朝霧堂のために……」
彼女は同じ言葉を繰り返していた。
父は、そんな千景を見る目を失っているようだった。継母は何度も何かを言いかけて、口を閉じる。誠一郎さまは青ざめ、千景の名を呼ぶことすらできないでいる。
すべてを、御前で明らかにしなければならない。
私は濡れた布を握り直した。
指先はまだ冷えている。耳元には妖の声の名残が残っている。けれど、もう甘い焦げ香はしなかった。
「御前へ出る」
朔夜さまが言った。
「私も、話します」
私は頷いた。声は震えなかった。
少し前の私なら、人前で自分の見たものを言うなどできなかった。笑われ、否定され、踏みにじられるのが怖くて、喉が閉じたはずだ。
でも今、朔夜さまが隣にいる。
私の見た黒い筋を信じ、私の指示に刃を預け、妖の芯を斬ってくれた人がいる。
私一人では、妖を倒せなかった。
朔夜さま一人では、斬った禍に呑まれていた。
二人でなければ、ここまで来られなかった。
私はそれを、体の奥で知った。
「薬帳も、小瓶も、香包みも、灰も……千景の言葉も。私が見たものと、皆が見たものを合わせて、御前で真実を明かします」
朔夜さまが私を見た。
黒い筋の残る首筋。汗に濡れた髪。まだ苦しみを隠しきれていない横顔。それでも、その目には静かな光があった。
「恐れぬのか」
「恐れています」
私は正直に答えた。
「でも、もう見なかったことにはしません」
風が白幕を揺らした。
焦げ香の消えた中庭に、春の冷たい空気が流れる。どこか遠くで、患者に湯を飲ませる薬師の声がした。誰かが泣き、誰かが祈るように息を吐く。
朔夜さまは、短く頷いた。
「ならば行くぞ、小夜」
「はい、朔夜さま」
御前の場には、まだ語られるべき真実が残っている。
千景の罪も、朝霧堂の名の下に隠された毒も、歪められた薄墨の印も、そして私がずっと見てきた黒いものも。
逃げずに、言葉にしなければならない。



