無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

赤が切れた瞬間、千景が悲鳴を上げた。

同時に、妖が千景の背から大きく剥がれた。今まで千景の肩に寄り添うようにいた黒い影が、初めて正体を晒す。

顔のない妖だった。

墨で塗りつぶした女のようにも、煙の獣のようにも見える。体の中には、いくつもの人の声が渦巻いていた。

認められたい。
奪われたくない。
怖い。
苦しい。
誰かのせいにしたい。
助けてほしい。

そのすべてを喰い混ぜて、妖は甘い焦げ香を吐いた。

「……朔夜さま」

私は息を呑む。

妖の中心が、見える。

剥がれたことで、よりはっきりした。黒い体の奥に、細く硬い芯がある。香炉の灰、小瓶の湿った毒、薄紅の包み、千景の焦り。それらが絡み合ってできた黒い針のような芯。

ただ斬れば散る。

芯を外せば、また人々の恐怖を喰って戻る。

「正面ではありません!」

私は叫んだ。

「胸の真ん中に見える黒は囮です。その奥、少し下——焦げた印みたいに歪んでいるところ。そこが芯です!」

朔夜さまは頷かなかった。

ただ、刀を構えた。

その姿が、ふっと静かになった。

御前の場のざわめきが遠ざかる。白幕のはためきも、千景のすすり泣きも、兵の足音も、すべてが薄くなる。朔夜さまの背だけが、夜に立つ一本の刃のように見えた。

妖が襲いかかる。

黒い袖のようなものが広がり、朔夜さまを包み込もうとする。彼を斬らせ、また禍を流し込み、今度こそ呑み込むつもりだ。

「朔夜さま!」

私は叫んだ。

「下から来ます!」

朔夜さまが一歩、踏み込んだ。

妖の黒い流れが足元から絡む寸前、彼の刀が低く走る。足元の筋が斬れ、黒い靄が跳ねる。続けて、上から落ちる黒を肩口で受けず、半身でかわす。

私が言った芯へ、道が開いた。

ほんの一瞬。

それを、朔夜さまは逃さなかった。