無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

朔夜さまが走った。

黒い妖が、千景の背後から大きく広がる。蛇の頭にも、女の髪にも、濡れた袖にも見える黒が、御前の場を覆おうとする。人々の悲鳴が上がる。兵たちが後退する。

朔夜さまは退かなかった。

一太刀目で、香炉から伸びる黒い筋を断つ。黒が裂け、甘い焦げ香がぶつりと切れた。けれど妖はすぐに別の筋を伸ばす。

「右です!」

私は叫んだ。

「床を這う筋が、兵の影へ伸びています!」

朔夜さまは振り返らずに刀を返した。黒い筋が斬られ、兵の足元で弾ける。斬られた禍の欠片が、また朔夜さまの腕へ流れ込もうとする。私はすぐに声を張った。

「吸いすぎないでください。吐いて!」

朔夜さまの肩が一瞬、息に合わせて落ちる。さっき手当てで通した細い道が、まだ残っている。黒い禍が流れ込んでも、胸の奥で完全に結ばれる前に、呼吸がそれを押し返している。

それでも、長くはもたない。

「次、赤い糸です!」

千景の袖口から、赤い糸が風もないのに伸びていた。人の目には、ただのほつれに見えるかもしれない。けれど私には、その糸が黒い流れを束ねているのが見えた。

朔夜さまの刃が、糸を斬った。