無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

御前の場の向こうで、黒い靄が再び動いた。

香炉を封じたはずなのに、妖は完全には消えていなかった。千景の背後から、ゆっくりと膨らんでいる。人々の恐怖がまだ残っている。倒れた者たちの苦しみ、御前を穢した焦り、千景自身の崩れそうな自尊心。それらを喰って、妖はもう一度形を取ろうとしていた。

千景はその場に座り込んでいた。

薄紅の小袖の裾が乱れ、珊瑚の簪が斜めに傾いている。美しい薬師の娘の姿は、ひびの入った人形のようだった。彼女の唇が震える。

「私は……こんなことまで望んでいない」

黒い妖は、千景の言葉を笑うように膨らんだ。

望んだかどうかなど、妖には関係ないのだ。

「小夜」

朔夜さまが低く言った。

「見えるか」

私は黒い妖を見つめた。

黒い靄は、ただ膨らんでいるのではなかった。香炉から伸びた筋、薄紅の紙片の残り、赤い糸の結び目、千景の胸元の焦り。いくつもの黒い流れが集まり、妖の中心へ向かって渦を巻いている。

その奥に、歪みがあった。

黒が濃すぎて、逆に細く透けるところ。

「見えます」

私は震える声で答えた。

「妖の芯が見えます。香炉から伸びた黒い筋、その奥です。千景の背後ではなく……香炉の灰と赤い糸が結ばれているところ。あそこが、流れの結び目です」

朔夜さまが、ゆっくり立ち上がった。

完全には回復していない。肩は重く、息も荒い。黒い筋はまだ首筋と腕に残っている。それでも彼は立った。刀を握り直し、私の示す先へ目を向ける。

「どこだ」

私は立ち上がり、朔夜さまの少し後ろに並んだ。

「左の香炉ではありません。転がった蓋の下、灰が黒く濡れているところから、細い筋が伸びています。その筋が、千景の袖の赤い糸へ絡んで、そこから妖の胸へ入っています」

黒い靄がこちらを向いた。

耳元で声がする。

——言うな。
——お前が言えば、千景は終わる。
——家も父も戻らない。
——お前は誰にも愛されない。

私は唇を噛んだ。

「……そこです。黒い流れが一度、逆巻いています。あの歪みの奥に芯があります」

朔夜さまは、一度だけ私を見た。

その目は、夜のように深い。

「信じる」

短い一言。

それだけで、私の足元に力が戻った。