無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

私は膝をつき、朔夜さまの前へにじり寄った。

「朔夜さま」

「来るな」

朔夜さまの目が、かすかに私を捉えた。焦点が揺れている。けれど、私を止めようとする意思だけは強い。

「お前まで……呑まれる」

「診せてください」

私の声は震えていた。

「触るな」

黒い筋が朔夜さまの首筋で脈打った。彼は苦しげに歯を食いしばる。刀を握る手に力が入り、指の節が白くなった。

私は、彼の目を見た。

「死なないで、朔夜」

その名が、私の口からこぼれた。

さまを付ける余裕もなかった。敬いを忘れたのではない。ただ、遠い武将としてではなく、今ここで失いたくない一人の人として呼ばなければ、届かない気がした。

朔夜さまの瞳が、ほんの一瞬、揺れた。

その隙に、私は彼の手首へ手を伸ばした。

黒い禍が私の指先に噛みついた。

氷の針を爪の下へ差し込まれたような痛みが走る。息が詰まり、耳元で甘い声が囁く。

——あなたにも欲しかったのでしょう。
——認められる場所が。
——朔夜に信じられることが、嬉しかったのでしょう。
——なら、そのまま一緒に沈めばいい。

指先が冷えていく。

けれど、私は手を離さなかった。

「湯を。清い湯と、温めた布をください!」

私は振り向かずに叫んだ。

誰もすぐには動けなかった。恐れが人々の足を縫い止めている。私はもう一度、声を張った。

「香炉を遠ざけてください。残った香を吸わせないで。風を入れて。白湯と布を、早く!」

すると、さっき患者を運んでくれた若い薬師が、はっとしたように走った。

「湯だ! 布を持て!」

兵の一人も動く。白幕の端が上げられ、外の冷たい風が中庭へ流れ込んだ。甘い焦げ香が少しだけ薄まる。誰かが香炉をさらに遠ざけ、灰を布で覆った。