無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

黒い筋は、朔夜さまの腕を越え、肩へ、首筋へ、胸元へと深く絡んでいた。

皮膚の下を這うそれは、もはや細い糸ではない。湿った縄のように太く、何本も束になって、脈の上に巻きついている。鎖骨の奥では、黒い結び目が息の道を塞ぐように固まり、胸の中心では毒を含んだ川が逆巻いていた。

朔夜さまは立っていた。

けれど、それは立っているというより、倒れぬよう刃で己を支えている姿だった。刀の切っ先が石畳をかすめ、かすかな金の音を立てる。額には汗が浮き、唇の色は薄い。息を吸おうとして、喉の奥で黒いものに阻まれる。

「……離れろ」

掠れた声が落ちた。

「触るな」

周囲の者たちは、誰も近づけなかった。

御前の中庭には、まだ白幕が揺れている。転がった香炉の蓋、こぼれた灰、割れた薬湯の椀。運ばれていく患者たちの呻き声。兵たちの荒い息。薬師たちの戸惑う声。すべてが、遠くで水に沈んだように聞こえた。

朔夜さまの足元だけが、夜だった。

春の昼の光の中にいるのに、そこだけ月のない淵のように暗い。黒い筋が彼の体から滲み、空気へ細く震えている。近づいた者の喉へ入り込もうと、舌のように伸びる。

兵の一人が手を伸ばしかけて、青ざめて退いた。

「朔夜さまに近づくな。禍が……」

誰かがそう呟いた。

恐れが広がる。

その恐れすら、まだ千景の背後に残る黒い妖の餌になっていた。遠くで、甘い焦げ香が細く嗤う。けれど今、私の目の前で息を失いかけている人から、目を逸らすことなどできなかった。

怖い。

黒い筋は、私を見ている。私の中の弱いところを、もう知っている。

無能。
役立たず。
姉なら退きなさい。
その手で、また誰かを死なせる。

耳の奥で、古い声が湧いた。

けれど、それよりも強く、胸の奥で別の声がした。

失いたくない。

その思いは、言葉になるより先に私の足を動かした。

朔夜さまを、失いたくない。

この人が初めて私の見たものを信じてくれた。恥さらしの札を折り、薬師としての手を認め、私の震える声を事実として扱ってくれた。夜ごと禍を抱え、一人で耐えていた人が、今、私の目の前で黒に沈もうとしている。

それを見て、下がることなどできなかった。