無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

振り返ると、朔夜さまはまだ立っていた。

立っている、ように見えた。

けれど次の瞬間、刀の切っ先がわずかに下がる。黒い筋が首筋から頬の下まで這い、鎖骨の奥で渦が幾重にも絡んだ黒い縄のように巻いてあるのが見えた。

朔夜さまが息を吸おうとして、失敗した。

「……っ」

わずかな音。

人々の混乱の中では、誰にも聞こえなかったかもしれない。

でも、私には聞こえた。

私は駆け寄った。

「朔夜さま」

彼の肩に手を伸ばした瞬間、黒い禍がこちらを向いた。私の指先へ入り込もうとする。冷たい。爪の下を噛むような冷え。

私は息を呑み、手を引きそうになった。

朔夜さまが低く言う。

「触るな」

「でも」

その声は、苦しみで掠れていた。

「座ってください。せめて、息を」

「小夜」

朔夜さまが私の名を呼んだ。

その声は、いつもより遠かった。

彼の目が一瞬、焦点を失う。

刀を支えていた手が震え、黒い筋が喉元で強く脈打つ。

私は、彼の胸の中に絡んだ黒を見た。

深く、深く、何本もの筋が結び合い、ほどけない縄のようになっている。そこへ、千景の焦り、人々の不安、香炉の黒、斬った禍の残りがすべて流れ込み、朔夜さまの内側で一つの暗い淵を作っていた。

このままでは。

息が止まりそうになる。

このままでは、朔夜さまが呑まれる。