無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

前方で、黒い影が再び膨らんだ。

千景はその場に立ち尽くしている。足元から黒い糸が伸び、香炉の残り煙と結び、周囲の不安を吸い続けている。千景自身も、もう制御できていないようだった。顔は青ざめ、唇が震えている。

「違う……私は、こんなことまで望んでいない」

千景の声は、誰に向けたものか分からない。

けれど背後の妖は、優しく彼女へまとわりつく。

——功績。
——名声。
——朝霧堂を守る。
——小夜に奪われるな。

その残響が、私の耳の奥へ届いた。

千景が両手で耳を塞ぐ。

「やめて。私は、ただ……」

その瞬間、黒い影が千景の背から離れ、御前の場へ大きく広がろうとした。

朔夜さまが走る。

刀が黒を斬る。

けれど今度の黒は重かった。

人々の恐怖を喰い、苦しみを飲み、千景の焦りを芯にして膨らんだ禍は、一度斬られても、粘るように刃へ絡みついた。

朔夜さまの腕が黒に覆われる。

手首から肩へ、肩から首へ、黒い筋が一気に走った。皮膚の下で、毒の川が逆巻く。彼の呼吸が止まりかけるのが、離れていても分かった。

それでも朔夜さまは、黒を自分へ引き寄せた。

人々へ流れないように。
御前へ届かないように。
患者たちへ戻らないように。

黒い禍は、斬られた先から彼の体へ吸い込まれていく。

「朔夜さま!」

今度こそ、私は叫んだ。

朔夜さまの膝が、わずかに沈んだ。

それでも彼は刀を支え、最後に伸びた黒い手を斬った。白幕が大きく揺れ、香炉の煙が切れ、場に広がっていた黒い靄が一瞬だけ薄くなる。

兵たちが香炉を封じ、遠ざける。
近習たちが藩主の簾を守りながら退く。
薬師たちは患者を運び出し始める。

私は最後の小姓の脈を取り、まだ生きていることを確かめた。細い。けれど脈はある。呼吸も、浅いが戻っている。

「この子を静かな部屋へ。香は焚かないで。湯と布を絶やさないでください」

そう言った声は、掠れていた。

私自身の体も、限界に近かった。膝は震え、指先は冷え、喉は香で焼けたように痛い。それでも、私は立ち上がった。

朔夜さまのもとへ行かなくては。