無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

「伏せろ!」

朔夜さまが叫んだ。

次の瞬間、黒い靄が香炉から大きく噴き上がった。

白幕が墨を浴びたように暗く見えた。兵たちが悲鳴を上げる。近習が簾の前に立ちはだかる。黒い手のようなものが、倒れた患者たちへ伸びる。

苦しみをさらに濃くするために。

朔夜さまがそれを斬った。

一閃。
二閃。
三閃。

刃が通るたび、黒は裂ける。けれど裂けた黒の一部が、また朔夜さまへ流れ込む。彼の首筋に黒い筋が浮かび、顎の下まで這い上がった。

朔夜さまの息が、わずかに乱れた。

私は患者の手当てをしながら、それを見てしまった。

「朔夜さま、もう——」

言いかけた私に、彼は振り返らない。

「後ろを見ろ!」

叱る声だった。

私ははっとして、目の前の患者へ向き直った。

そうだ。

任されたのだ。

私は、ここを守る。

「この方を運んでください。風の通る端へ。香炉から離して」

兵の一人が頷き、患者を抱え上げる。私はすぐ次の患者へ向かう。

薬湯を薄く作る。布を絞る。脈を見る。呼吸を合わせる。香を遠ざける。熱、薬あたり、妖毒、禍の侵食。それぞれを分ける。

一つ一つ。
一人ずつ。

私の力は、小さすぎる。

けれど、今ここで小さな手当てを積むことが、後ろを守ることなのだ。