無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

その時、小姓が咳き込んだ。

初めは小さな咳だった。

すぐに止まるはずのものだった。

けれど次の瞬間、彼は胸を押さえ、膝をついた。

「……っ、息が」

周囲がざわめく。

千景の目が、一瞬だけ見開かれた。

けれど、彼女はすぐに微笑みを戻した。

「咳が動いただけです。薬が効き始めた証でしょう。少しお水を」

そう言った時、別の兵も倒れた。

中年の兵が腹を押さえ、顔を歪めている。これは薬あたりだ。苦しげだが、黒はない。けれど小姓のほうは違う。喉から胸へ、黒い糸が絡まり、香炉の煙と結ばれていく。

さらに、控えていた兵の中からも、数人が咳き込み始めた。

香を吸った者たちだ。

白い煙の中に、黒い糸が混じり、空気を伝って人々の喉へ細く絡みつく。特に不安を抱いている者、もともと熱のある者、体の弱い者に黒が入りやすい。ざわめきが広がるほど、黒い影は嬉しそうに膨らんだ。

千景の背後で、妖が笑った。

人の苦しみを喰っている。

千景の焦りだけではない。周囲の不安、恐れ、疑い、痛み。すべてを甘い蜜のように吸い上げている。

「香炉を下げろ!」

朔夜さまの声が響いた。

兵たちが動く前に、黒い靄が香炉から立ち上がった。煙の形を借りて、御前の場へ広がろうとする。

朔夜さまが刀を抜いた。

白刃が太陽の光を斬った。

その瞬間、私には黒い靄が敵の形を取ったように見えた。蛇とも、手ともつかないものが、香炉から伸びて兵たちへ絡みつこうとする。朔夜さまはためらわず、その黒を斬った。

空気が裂ける音がした。

目には見えぬはずのものが、斬られた瞬間だけ、墨を流したように散った。人々が悲鳴を上げる。白幕が大きくはためき、香炉の蓋が転がった。

黒い禍の一部が、朔夜さまの腕へ流れ込む。

私ははっきり見た。

斬られた黒い靄が、逃げ場を失い、朔夜さまの刀から腕へ、腕から肩へ、脈に沿って入り込む。彼の手首にあった黒い筋が、一気に太くなる。

「朔夜さま!」

叫びかけた私へ、朔夜さまは振り返らずに言った。

「後ろは任せる」

一瞬、音が消えた。

後ろは任せる。

その言葉が、私の胸の奥に落ちた。

守られるだけではなく。
私にも守る場所がある。

震えていた足が、畳を踏んだ。

「はい!」

私は袖をまとめ、倒れた者たちのほうへ走った。