無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

笛の音が止んだ。

御殿の奥から、藩主の近習が現れた。場の空気が一斉に改まる。皆が頭を下げ、白幕が風で大きく膨らんだ。藩主の姿は簾の向こうにあり、はっきりとは見えない。ただ、上座に人が座した気配とともに、空気が重くなる。

献薬の儀が始まった。

最初に呼ばれたのは、城下の老薬師だった。腰の曲がった小柄な人で、咳止めの丸薬を差し出し、その効能を簡潔に述べた。次に寺に出入りする薬師が、熱を下げる薬湯の処方を示した。どの薬も、素朴で堅実だった。

私の目に、黒い糸は見えなかった。

そして、千景の名が呼ばれた。

「朝霧堂、千景」

千景は静かに前へ出た。

白い幕の下、薄紅の小袖が陽を受けて淡く光る。袖口が翻るたび、白檀と桂皮の香がふわりと広がった。見ている者たちから、小さな感嘆が漏れる。

父は胸を張った。
継母は誇らしげに目を細めた。
誠一郎さまは、千景の横顔を眩しそうに見つめていた。

「此度、城下を悩ませる熱と咳に対し、朝霧堂では薬湯と香を合わせた処方を整えました」

千景の声は、鈴を転がすように澄んでいた。

「薬は内より熱を鎮め、香は外より息を開きます。薬ばかりでは幼子や老いた者には強すぎることがございますゆえ、香を用いて穏やかに身を整えるのです」

その言葉だけなら、間違ってはいない。

香は薬にもなる。
強すぎれば毒になる。

千景も、それを知っているはずだった。

手代が、千景の前に薬湯の椀と香炉を置いた。香炉は小ぶりで、銀の透かし彫りが美しい。薬草の模様が彫られ、蓋の穴からまだ薄い煙が出る前の灰の匂いが漂っている。

千景が袖から薄紅の香包みを取り出した。

赤い糸で結ばれている。

私の指先が冷えた。

弥太くんの枕元に置かれていたものと、同じ色。薬蔵の棚の裏にあった紙片と、同じ薄紅。千景の手元のものは、より丁寧に作られており、角の折り目まで美しかった。

その美しさの下から、黒い靄が漏れていた。

千景がその包みを香炉へ近づけた瞬間、背後の影が嬉しそうに膨らんだ。

人々の期待が千景に集まる。

藩主の御前で称えられるかもしれない。
朝霧堂の名が上がるかもしれない。
千景が筆頭薬師になるかもしれない。

その期待と、千景自身の焦りが、香炉の周りで見えない蜜となって黒い影へ流れ込んでいく。

私は、息を呑んだ。

香炉に火が入れられる。

白い煙が、細く立ち上がった。

初めは穏やかな白檀の香だった。甘く、清らかで、心を落ち着かせる匂い。周囲の者たちがほっとしたように息を吸う。桂皮の温かな香りがその下を支え、陳皮の明るい苦みが尾を引いた。

けれど。

その奥に、黒がいた。

甘い焦げ香。
焦げた蜜の底に、湿った土の匂い。

「朔夜さま」

私は小さく言った。

「混じっています。香に、黒が」

朔夜さまの手が、刀の柄へ近づいた。

けれど、御前の儀の最中だ。周囲には藩主の近習、兵、薬師、患者として連れてこられた者たちがいる。ここで斬れば、香が散る。薬蔵の時と同じだ。

千景は、薬湯を差し出した。

「本日は、実際に軽い咳のある兵と、熱を引きかけた者に試していただきます」

三人、前へ出された。

一人は若い兵で、頬に赤みがある。これは普通の熱だ。脈は速いだろうが、黒い糸は見えない。二人目は中年の兵で、顔色が少し悪い。胃が弱いのか、薬に当たりやすそうな薄い黄色が口元に見える。三人目は、咳を押し殺している少年のような小姓だった。胸元に、かすかな黒い筋が絡んでいる。

千景の薬湯が三人へ渡された。

若い兵は、苦そうに飲み込んだ。中年の兵は、飲んだ直後に顔をしかめた。

小姓は、一口飲んだあと、香炉の煙を吸った。胸元の黒い筋が、ぴくりと跳ねた。喉へ向かって伸びる。

私は息を止めた。

「朔夜さま、三人目が危ないです」