屋敷へ戻ると、弥藤が待っていた。
いつになく険しい顔だった。廊下の行灯の光を受けて、白髪が薄く光っている。手には、一通の書状があった。
「朔夜さま。城より使いが参りました」
朔夜さまが受け取り、封を切る。
私はその横で、書状の紙がかすかに震えているように見えた。墨の字の上に黒い糸はない。けれど、遠くから甘い焦げ香が漂ってくる気がする。
朔夜さまの目が、書状を追うにつれて冷えていった。
「何と」
弥藤が問う。
朔夜さまは低く言った。
「明後日、藩主の御前で献薬の場が設けられる。朝霧堂の千景を含む、有力な薬師たちが、城下の病を鎮める薬と香を披露するそうだ」
胸が、どくんと大きく鳴った。
千景が。
御前で。
薬と香を。
「御前で効を示し、藩主のお墨付きを得たいのでしょう」
弥藤の声も硬い。
「今回の功績が認められた者には、藩の筆頭薬師の座を得られると噂です」
私の脳裏に、千景の手控えの文字が浮かんだ。
御前献薬。
功績。
称賛。
父上へ。
その文字の上に、黒い筋が絡みつく。薄紅の紙片。赤い糸。焦げた印。香炉の灰。小瓶の湿った土の匂い。すべてが一本の黒い糸になって、城へ向かって伸びていくのを感じた。
「朔夜さま」
私の声は震えていた。
「その薬と香の先に……また、黒い糸があります」
まだ見たわけではない。
けれど、予感があった。
千景は止まらない。
疑われたからこそ、御前で証明しようとする。父と継母に、誠一郎さまに、藩主に、城下に、自分こそが筆頭薬師に相応しいと見せようとする。その焦りに、背後の黒い影がさらに甘く囁く。
必ず功績になる、と。
誰もが称える、と。
小夜には届かない名声だ、と。
朔夜さまは書状を握りしめた。
紙が小さく鳴る。
「御前で動く気か」
その声は、夜の底から抜かれた刀のようだった。
私は息を吸った。
怖い。
けれど、目を逸らしたくない。
甘い焦げ香が、まだ遠くで私を呼んでいた。
いつになく険しい顔だった。廊下の行灯の光を受けて、白髪が薄く光っている。手には、一通の書状があった。
「朔夜さま。城より使いが参りました」
朔夜さまが受け取り、封を切る。
私はその横で、書状の紙がかすかに震えているように見えた。墨の字の上に黒い糸はない。けれど、遠くから甘い焦げ香が漂ってくる気がする。
朔夜さまの目が、書状を追うにつれて冷えていった。
「何と」
弥藤が問う。
朔夜さまは低く言った。
「明後日、藩主の御前で献薬の場が設けられる。朝霧堂の千景を含む、有力な薬師たちが、城下の病を鎮める薬と香を披露するそうだ」
胸が、どくんと大きく鳴った。
千景が。
御前で。
薬と香を。
「御前で効を示し、藩主のお墨付きを得たいのでしょう」
弥藤の声も硬い。
「今回の功績が認められた者には、藩の筆頭薬師の座を得られると噂です」
私の脳裏に、千景の手控えの文字が浮かんだ。
御前献薬。
功績。
称賛。
父上へ。
その文字の上に、黒い筋が絡みつく。薄紅の紙片。赤い糸。焦げた印。香炉の灰。小瓶の湿った土の匂い。すべてが一本の黒い糸になって、城へ向かって伸びていくのを感じた。
「朔夜さま」
私の声は震えていた。
「その薬と香の先に……また、黒い糸があります」
まだ見たわけではない。
けれど、予感があった。
千景は止まらない。
疑われたからこそ、御前で証明しようとする。父と継母に、誠一郎さまに、藩主に、城下に、自分こそが筆頭薬師に相応しいと見せようとする。その焦りに、背後の黒い影がさらに甘く囁く。
必ず功績になる、と。
誰もが称える、と。
小夜には届かない名声だ、と。
朔夜さまは書状を握りしめた。
紙が小さく鳴る。
「御前で動く気か」
その声は、夜の底から抜かれた刀のようだった。
私は息を吸った。
怖い。
けれど、目を逸らしたくない。
甘い焦げ香が、まだ遠くで私を呼んでいた。



