無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

「朔夜さまは、またお一人で抱えるおつもりですか」

言ってから、自分で驚いた。

朔夜さまの眉がわずかに動く。

水緒は何も言わず、静かに古い巻物を畳んでいる。

私は唇を噛み、俯きそうになる顔を上げた。

「私は、怖いです。禍も、千景の背後にいるものも、朝霧堂へ戻ることも怖いです。自分の見たものが間違っていたらどうしようとも思います」

夜風が拝殿へ入り、灯明の火が小さく揺れた。

その揺れの中で、私は言った。

「それでも、見えてしまったものから目を逸らしたくありません」

朔夜さまの瞳が、わずかに揺れた。

「小夜」

私は続ける。

「禍封じの契りが、今すぐ私にできるとは思えません。私にはまだ、分からないことばかりです。けれど、朔夜さまが一人で呑まれていくのを、見なかったことにはできません。千景の背後に黒いものがいることも、香が城下へ広がっていることも」

母の小袋の布が、掌で温かくなっていく。

「私は、薬師の娘です。まだ未熟でも、できる手当てがあるなら、手を伸ばしたいのです」

朔夜さまは黙っていた。

長い沈黙だった。

竹の葉が鳴る。遠くで鳥が一羽、夜のねぐらへ飛び立つ羽音がした。社の床は冷たく、膝からじんわりと寒さが上がってくる。香の細い匂いが、夜気に溶けた。

やがて、朔夜さまは視線を外した。

「……今は、契りの話をする時ではない」

その声は硬かった。

「千景と、背後にいるものを先に追う。お前は調査に必要だから連れていく。だが、俺の禍まで背負おうとするな」

突き放すような言葉。

けれど、完全に閉ざされたわけではない気がした。

私は胸の痛みを抱えたまま、頷いた。

「はい」

水緒が静かに言った。

「契りは、急かされて結ぶものではございませぬ。互いに信じ、弱さを預けられる時が来たなら、月の下で言葉を交わされればよい」