夕暮れの竹林は、青く沈んでいた。
陽が落ちきる前の空は薄墨色で、遠くの雲の端だけが淡い紅に染まっている。竹の葉が風に擦れ、さらさらと水の流れるような音を立てた。地面には乾いた葉が重なり、踏むたびかさりと鳴る。夜気はまだ浅いのに、竹林の奥だけはひんやりと冷え、苔と湿った土の匂いがした。
朔夜さまは腰に刀を差し、私の前を歩いていた。
私はその少し後ろを、母の小袋を胸に忍ばせて歩く。
竹林の奥に、小さな鳥居が見えた。
朱はほとんど褪せ、雨に打たれて木目が浮いている。鳥居の足元には苔が厚く、白い小石の参道はところどころ土に埋もれていた。けれど、荒れているわけではなかった。誰かが毎朝掃いているのだろう。落ち葉は参道の脇へ寄せられ、手水鉢には澄んだ水が張られている。
その水面に、夕方の細い月が映っていた。
月下の社。
名の通り、月を待つ場所のようだった。
拝殿の前に、白髪の老人が立っていた。粗い麻の衣をまとい、手には竹箒を持っている。深く刻まれた皺のある顔は、枯れた木の皮のようだったが、目だけは不思議に澄んでいた。
「朔夜さま。お久しゅうございます。水緒でございます」
老人は静かに頭を下げた。
朔夜さまが頷くと、社守の水緒は、私へ目を向けた。
「そちらの娘御が、小夜どのですかな」
「……はい」
私は慌てて頭を下げた。
水緒は私の胸元あたりを見た。母の小袋がそこにあることを、見透かされたような気がした。
「薄墨の匂いが、まだ少し残っておりますな」
私は息を呑む。
「母の小袋です。私は、薄墨のことを何も知りません」
「知る者はもう少ない。知らぬのも無理はございませぬ」
水緒は拝殿の戸を開けた。
中は薄暗かった。
古い木と、乾いた紙と、ほんの少しの香の匂い。朝霧堂の甘い焦げ香とは違う、清く細い香だった。風が通り、空気が重く沈まない。奥には小さな御神体らしき鏡があり、その前に古い箱が置かれている。
水緒は箱から巻物と帳面を取り出した。
紙は黄ばみ、端はところどころ欠けている。墨の字も薄れていたが、丸い月の印と草葉のような線が残っていた。
母の小袋に似た、けれどもっと古い印。
「この社は、昔、薄墨の薬師と、禍を斬る武人が禍を鎮めるために使った場所でございます」
水緒は静かに語った。
「禍は、斬れば消えるというものではございませぬ。斬った武人の身に、残る。強き者ほど、多くを引き受けてしまう」
私は朔夜さまの腕を思い出した。
黒い筋。胸の奥で渦巻く流れ。夜ごと、一人で耐える背中。
「その武人を支えたのが、薄墨の薬師だったと伝わっております。薬師は禍を毒として視る。どこに滞り、どこが濁り、どこを薬や香、布、脈、呼吸で払えばよいかを見る」
水緒の目が、私へ向く。
私は思わず指を握った。
「禍封じの契りとは、禍を一人に背負わせぬための誓いでございます」
社の中に、竹葉の音が流れ込んだ。
さらさらと、夜が近づく音。
「契りを結んでも禍が完全に消えるわけではございませぬ」
水緒は古い巻物の一部を指した。
そこには、月の下で向かい合う二人の小さな絵が描かれていた。片方は刀を持つ武人。もう片方は薬箱を抱えた者。二人の間には、黒い川のようなものがあり、薬師の手元から細い白い筋が伸びている。
「ただ、薬師が側にいることで、武人は一人で呑まれずに済む。己の弱さを見せ、相手の手を信じられる者同士でなければ、この契りは結べません」
弱さを見せられる相手。
私は朔夜さまを見た。
朔夜さまは巻物を見つめていた。横顔は静かだったが、瞳の奥に、触れれば痛みそうな暗さがあった。
この人は、弱さを見せてこなかった。
見せれば、誰かが禍に触れる。近づく者を巻き込む。だから一人で耐えるしかなかった。夜の離れで、香炉の煙の中、床に膝をついても誰も呼ばなかった。
その痛みを思うと、胸が苦しくなる。
朔夜さまも私を見た。
その目は、静かに何かを決めた人の目だった。
「お前を巻き込むつもりはない」
その言葉は、思っていたより冷たく胸に入った。
守るための言葉だと分かる。
朔夜さまは、私を危険から遠ざけようとしている。禍が私の弱いところに入り込むことを知っているから。朝霧堂で傷ついたばかりの私を、これ以上巻き込みたくないのだろう。
分かる。
分かるのに、胸が痛んだ。
距離を置かれたようだった。
せっかく同じ夜の字を持つ人が、私の見たものを信じると言ってくれたのに。その人がまた、一人で夜の中へ戻っていくような気がした。
陽が落ちきる前の空は薄墨色で、遠くの雲の端だけが淡い紅に染まっている。竹の葉が風に擦れ、さらさらと水の流れるような音を立てた。地面には乾いた葉が重なり、踏むたびかさりと鳴る。夜気はまだ浅いのに、竹林の奥だけはひんやりと冷え、苔と湿った土の匂いがした。
朔夜さまは腰に刀を差し、私の前を歩いていた。
私はその少し後ろを、母の小袋を胸に忍ばせて歩く。
竹林の奥に、小さな鳥居が見えた。
朱はほとんど褪せ、雨に打たれて木目が浮いている。鳥居の足元には苔が厚く、白い小石の参道はところどころ土に埋もれていた。けれど、荒れているわけではなかった。誰かが毎朝掃いているのだろう。落ち葉は参道の脇へ寄せられ、手水鉢には澄んだ水が張られている。
その水面に、夕方の細い月が映っていた。
月下の社。
名の通り、月を待つ場所のようだった。
拝殿の前に、白髪の老人が立っていた。粗い麻の衣をまとい、手には竹箒を持っている。深く刻まれた皺のある顔は、枯れた木の皮のようだったが、目だけは不思議に澄んでいた。
「朔夜さま。お久しゅうございます。水緒でございます」
老人は静かに頭を下げた。
朔夜さまが頷くと、社守の水緒は、私へ目を向けた。
「そちらの娘御が、小夜どのですかな」
「……はい」
私は慌てて頭を下げた。
水緒は私の胸元あたりを見た。母の小袋がそこにあることを、見透かされたような気がした。
「薄墨の匂いが、まだ少し残っておりますな」
私は息を呑む。
「母の小袋です。私は、薄墨のことを何も知りません」
「知る者はもう少ない。知らぬのも無理はございませぬ」
水緒は拝殿の戸を開けた。
中は薄暗かった。
古い木と、乾いた紙と、ほんの少しの香の匂い。朝霧堂の甘い焦げ香とは違う、清く細い香だった。風が通り、空気が重く沈まない。奥には小さな御神体らしき鏡があり、その前に古い箱が置かれている。
水緒は箱から巻物と帳面を取り出した。
紙は黄ばみ、端はところどころ欠けている。墨の字も薄れていたが、丸い月の印と草葉のような線が残っていた。
母の小袋に似た、けれどもっと古い印。
「この社は、昔、薄墨の薬師と、禍を斬る武人が禍を鎮めるために使った場所でございます」
水緒は静かに語った。
「禍は、斬れば消えるというものではございませぬ。斬った武人の身に、残る。強き者ほど、多くを引き受けてしまう」
私は朔夜さまの腕を思い出した。
黒い筋。胸の奥で渦巻く流れ。夜ごと、一人で耐える背中。
「その武人を支えたのが、薄墨の薬師だったと伝わっております。薬師は禍を毒として視る。どこに滞り、どこが濁り、どこを薬や香、布、脈、呼吸で払えばよいかを見る」
水緒の目が、私へ向く。
私は思わず指を握った。
「禍封じの契りとは、禍を一人に背負わせぬための誓いでございます」
社の中に、竹葉の音が流れ込んだ。
さらさらと、夜が近づく音。
「契りを結んでも禍が完全に消えるわけではございませぬ」
水緒は古い巻物の一部を指した。
そこには、月の下で向かい合う二人の小さな絵が描かれていた。片方は刀を持つ武人。もう片方は薬箱を抱えた者。二人の間には、黒い川のようなものがあり、薬師の手元から細い白い筋が伸びている。
「ただ、薬師が側にいることで、武人は一人で呑まれずに済む。己の弱さを見せ、相手の手を信じられる者同士でなければ、この契りは結べません」
弱さを見せられる相手。
私は朔夜さまを見た。
朔夜さまは巻物を見つめていた。横顔は静かだったが、瞳の奥に、触れれば痛みそうな暗さがあった。
この人は、弱さを見せてこなかった。
見せれば、誰かが禍に触れる。近づく者を巻き込む。だから一人で耐えるしかなかった。夜の離れで、香炉の煙の中、床に膝をついても誰も呼ばなかった。
その痛みを思うと、胸が苦しくなる。
朔夜さまも私を見た。
その目は、静かに何かを決めた人の目だった。
「お前を巻き込むつもりはない」
その言葉は、思っていたより冷たく胸に入った。
守るための言葉だと分かる。
朔夜さまは、私を危険から遠ざけようとしている。禍が私の弱いところに入り込むことを知っているから。朝霧堂で傷ついたばかりの私を、これ以上巻き込みたくないのだろう。
分かる。
分かるのに、胸が痛んだ。
距離を置かれたようだった。
せっかく同じ夜の字を持つ人が、私の見たものを信じると言ってくれたのに。その人がまた、一人で夜の中へ戻っていくような気がした。



