朔夜さまの屋敷へ戻る頃には、陽は西へ傾き始めていた。
押収した品は、奥の一室へ運ばれた。障子を閉め、畳の上に白い布を敷き、そこへ一つずつ並べていく。小瓶、薄紅の紙片、赤い糸、香炉の灰、小皿に移した焦げ粉、薬帳の写し、香材の覚え、千景の手控え。
白い布の上に置かれると、それらは小さく、頼りなく見えた。
けれど私には分かる。
一つ一つから、違う黒が滲んでいる。
薄紅の紙片の黒は、甘く焦げていた。人の不安へ柔らかく入り込み、喉や胸に絡む黒。赤い糸は、紙片よりも細いが、締めつけるような黒を持っていた。何かと何かを結び、ほどけないように縛る気配。
香炉の灰の黒は、焚かれて散ったものの残り香だった。白い灰の下に沈み、触れればふわりと舞って広がりそうな軽さがある。けれど小瓶の蓋に残る黒い筋は、まったく違った。
湿っている。
土の底、水の腐った井戸の縁、枯れた根を掘り返した時のような匂い。鼻を近づけなくても、胸が重くなる。禁じられた薬材の匂いなのだと、理屈より先に体が拒んだ。
「香の黒と、小瓶の黒は違います」
私は白い布の端に膝を揃え、そっと言った。
「香のほうは甘い焦げ香です。喉や胸へ細く絡む。けれど、小瓶は……湿った土のような匂いがします。熱を下げる薬ではありません。むしろ、人の体の内側を濁らせるような」
朔夜さまは小瓶を直接触れず、布越しに眺めた。
「禁薬か」
「名は分かりません。でも、朝霧堂の普通の薬ではありません」
私は情けなく思いながらも、正直に言った。
「名が分からずとも、匂いの違いを言えるなら十分だ」
そう言って、朔夜さまは薬帳の写しを開いた。
葛根、黄芩、桂枝、甘草。
通常の薬材の出入りに混じって、香材の項だけが妙に多かった。
白檀、桂皮、丁子、陳皮、沈香。
そして、帳面の端に削り跡として記されていた欠け。
弥藤が老眼鏡のような丸い硝子を目に当て、写しを覗いた。
「こちら、数が合いませぬな。帳面では白檀二包み残とありますが、実際の在庫は半包みにも満たなかった。桂皮も同じく」
朔夜さまが千景の手控えを開く。
私はその紙を見た瞬間、胸の奥がひやりとした。
千景の字だった。
細く整った、少し右へ流れる筆跡。昔、私が薬草名を紙に練習していると、千景は隣に座り、同じ文字をずっと美しく書いた。父はそれを褒めた。私の文字は、墨が滲んでると言って苦笑した。
その千景の字が、手控えの中に並んでいる。
「幼子の咳止め香」
「眠りを助ける香」
「御前献薬の前に効を示す」
「功績となる処方」
「父上へ」
「御前にて称賛」
そこまで読んで、私は指先が冷えるのを感じた。
千景の焦りが、紙の上に残っている。
手控えの文字は整っているのに、ところどころ筆圧が強い。特に「功績」と「御前」の文字は、墨が紙へ深く沈み込んでいた。爪を立てた跡のように、黒い筋がそこから伸びている。
「千景は、御前を意識していたのですね」
私が呟くと、弥藤が静かに頷く。
「薬師の家が藩主の御前で効を示せば、大きな誉れとなりましょう」
朔夜さまは手控えの頁をめくった。
そこに、小さな焦げ跡があった。
紙の端が丸く黒くなり、焦げた部分に赤い糸のような繊維が一本挟まっている。さらに、その焦げ跡の内側に、薄い印が浮いていた。
丸い月の欠けた形。
三本の草葉のような線。
けれど弥太くんの香包みの印や、母の小袋の薄墨の印とは違う。もっと黒く、歪んでいた。まるで本来の印を焼き焦がし、別のものへ作り替えたような形だった。
私は息を呑んだ。
「これは……」
赤い糸が、紙の焦げ跡から小さく伸びているように見えた。
目で見える糸ではない。けれど、黒の中に赤が混じって、何かと何かを結ぶ気配がある。香包みの糸とも、小瓶の黒とも違う。もっと深く、指先を絡めて約したような黒。
「結んだ痕、みたいです」
私は自分の言葉に戸惑った。
「ただの仕入れや調合ではなくて……何かを、結んだ。約束した、というか」
「誰とだ」
朔夜さまの声が低くなる。
私は首を振った。
「分かりません。妖と、とは言い切れません。でも……人の手だけではない気がします」
焦げ跡を見ていると、耳の奥で甘い声がした気がした。
——必ず、功績になる。
——誰もが称える。
——小夜には届かぬ場所へ。
私はぞくりとして、小袋を握った。
「この黒は、千景の焦りに似ています」
言ってから、胸が痛んだ。
千景は私を傷つけた。疑いが向くよう仕向けた。けれど、千景が焦っていたことも、私は知っている。
母が亡くなってから、父の期待は千景に集まった。継母はそれを誇り、誠一郎さまは千景を選んだ。千景は中心であり続けなければならなかった。きっとそれは、甘い蜜であり、同時に逃げられない檻だったのかもしれない。
でも、だからといって、城下の子どもの喉に黒い糸を絡ませてよい理由にはならない。
私に罪を着せてよい理由にもならない。
「焦りにつけこまれている」
朔夜さまが言った。
「だが、手を伸ばしたのは千景自身かもしれぬ」
その声に、私はゆっくり頷いた。
まだ断じるには早い。
けれど、千景が何も知らずに利用されただけだとは、もう思えなかった。香材の在庫は減っている。薬帳は書き換えられている。手控えには御前や功績の文字が残っている。焦げた紙片には、契約めいた黒い印がある。
それでも、全貌はまだ見えない。
黒い糸の先は、さらに暗い場所へ伸びている。
押収した品は、奥の一室へ運ばれた。障子を閉め、畳の上に白い布を敷き、そこへ一つずつ並べていく。小瓶、薄紅の紙片、赤い糸、香炉の灰、小皿に移した焦げ粉、薬帳の写し、香材の覚え、千景の手控え。
白い布の上に置かれると、それらは小さく、頼りなく見えた。
けれど私には分かる。
一つ一つから、違う黒が滲んでいる。
薄紅の紙片の黒は、甘く焦げていた。人の不安へ柔らかく入り込み、喉や胸に絡む黒。赤い糸は、紙片よりも細いが、締めつけるような黒を持っていた。何かと何かを結び、ほどけないように縛る気配。
香炉の灰の黒は、焚かれて散ったものの残り香だった。白い灰の下に沈み、触れればふわりと舞って広がりそうな軽さがある。けれど小瓶の蓋に残る黒い筋は、まったく違った。
湿っている。
土の底、水の腐った井戸の縁、枯れた根を掘り返した時のような匂い。鼻を近づけなくても、胸が重くなる。禁じられた薬材の匂いなのだと、理屈より先に体が拒んだ。
「香の黒と、小瓶の黒は違います」
私は白い布の端に膝を揃え、そっと言った。
「香のほうは甘い焦げ香です。喉や胸へ細く絡む。けれど、小瓶は……湿った土のような匂いがします。熱を下げる薬ではありません。むしろ、人の体の内側を濁らせるような」
朔夜さまは小瓶を直接触れず、布越しに眺めた。
「禁薬か」
「名は分かりません。でも、朝霧堂の普通の薬ではありません」
私は情けなく思いながらも、正直に言った。
「名が分からずとも、匂いの違いを言えるなら十分だ」
そう言って、朔夜さまは薬帳の写しを開いた。
葛根、黄芩、桂枝、甘草。
通常の薬材の出入りに混じって、香材の項だけが妙に多かった。
白檀、桂皮、丁子、陳皮、沈香。
そして、帳面の端に削り跡として記されていた欠け。
弥藤が老眼鏡のような丸い硝子を目に当て、写しを覗いた。
「こちら、数が合いませぬな。帳面では白檀二包み残とありますが、実際の在庫は半包みにも満たなかった。桂皮も同じく」
朔夜さまが千景の手控えを開く。
私はその紙を見た瞬間、胸の奥がひやりとした。
千景の字だった。
細く整った、少し右へ流れる筆跡。昔、私が薬草名を紙に練習していると、千景は隣に座り、同じ文字をずっと美しく書いた。父はそれを褒めた。私の文字は、墨が滲んでると言って苦笑した。
その千景の字が、手控えの中に並んでいる。
「幼子の咳止め香」
「眠りを助ける香」
「御前献薬の前に効を示す」
「功績となる処方」
「父上へ」
「御前にて称賛」
そこまで読んで、私は指先が冷えるのを感じた。
千景の焦りが、紙の上に残っている。
手控えの文字は整っているのに、ところどころ筆圧が強い。特に「功績」と「御前」の文字は、墨が紙へ深く沈み込んでいた。爪を立てた跡のように、黒い筋がそこから伸びている。
「千景は、御前を意識していたのですね」
私が呟くと、弥藤が静かに頷く。
「薬師の家が藩主の御前で効を示せば、大きな誉れとなりましょう」
朔夜さまは手控えの頁をめくった。
そこに、小さな焦げ跡があった。
紙の端が丸く黒くなり、焦げた部分に赤い糸のような繊維が一本挟まっている。さらに、その焦げ跡の内側に、薄い印が浮いていた。
丸い月の欠けた形。
三本の草葉のような線。
けれど弥太くんの香包みの印や、母の小袋の薄墨の印とは違う。もっと黒く、歪んでいた。まるで本来の印を焼き焦がし、別のものへ作り替えたような形だった。
私は息を呑んだ。
「これは……」
赤い糸が、紙の焦げ跡から小さく伸びているように見えた。
目で見える糸ではない。けれど、黒の中に赤が混じって、何かと何かを結ぶ気配がある。香包みの糸とも、小瓶の黒とも違う。もっと深く、指先を絡めて約したような黒。
「結んだ痕、みたいです」
私は自分の言葉に戸惑った。
「ただの仕入れや調合ではなくて……何かを、結んだ。約束した、というか」
「誰とだ」
朔夜さまの声が低くなる。
私は首を振った。
「分かりません。妖と、とは言い切れません。でも……人の手だけではない気がします」
焦げ跡を見ていると、耳の奥で甘い声がした気がした。
——必ず、功績になる。
——誰もが称える。
——小夜には届かぬ場所へ。
私はぞくりとして、小袋を握った。
「この黒は、千景の焦りに似ています」
言ってから、胸が痛んだ。
千景は私を傷つけた。疑いが向くよう仕向けた。けれど、千景が焦っていたことも、私は知っている。
母が亡くなってから、父の期待は千景に集まった。継母はそれを誇り、誠一郎さまは千景を選んだ。千景は中心であり続けなければならなかった。きっとそれは、甘い蜜であり、同時に逃げられない檻だったのかもしれない。
でも、だからといって、城下の子どもの喉に黒い糸を絡ませてよい理由にはならない。
私に罪を着せてよい理由にもならない。
「焦りにつけこまれている」
朔夜さまが言った。
「だが、手を伸ばしたのは千景自身かもしれぬ」
その声に、私はゆっくり頷いた。
まだ断じるには早い。
けれど、千景が何も知らずに利用されただけだとは、もう思えなかった。香材の在庫は減っている。薬帳は書き換えられている。手控えには御前や功績の文字が残っている。焦げた紙片には、契約めいた黒い印がある。
それでも、全貌はまだ見えない。
黒い糸の先は、さらに暗い場所へ伸びている。



