薬蔵の空気が、底の抜けた井戸みたいに重く沈んだ。
乾いた薬草の匂いも、木箱の古い木の匂いも、香炉に残った灰の苦みも、一息ごとに遠ざかっていく。かわりに、甘い焦げ香が濃くなった。蜜を煮詰めて、黒く炭へ落としたような匂い。
千景の背後で、影が揺れていた。
それは、人の影ではなかった。行灯の光とは違う向きに伸び、壁にも床にも縫いつかず、ただ千景の肩の後ろにまとわりついている。黒い靄は、千景が息を吸うたびふくらみ、私を見て笑うように、細く端を震わせた。
「……千景の背後に、何かがいる」
私の声は、薬蔵の中でひどく小さかった。
けれど、朔夜さまは聞き逃さなかった。
刀の柄に触れた手が、わずかに沈む。
その瞬間、黒い影が濃くなった。
まるで、こちらが気づいたことを喜ぶように。
千景の肩先から、黒い靄が煙のように湧き上がる。香炉の灰から伸びた糸、薄紅の紙片から滲む黒、白檀の木箱の底に残っていた焦げた粉。それらが一斉に千景のほうへ吸い寄せられ、彼女の背後で一つの濁った夜になろうとしていた。
「小夜、下がれ」
朔夜さまの声が、刃のように低く落ちた。
私は一歩退いた。
朔夜さまは刀に手をかけたまま、ほんの半歩、千景へ踏み込んだ。羽織の裾が揺れ、薬蔵の床板がきしむ。その音だけで、父も継母も誠一郎さまも息を呑んだ。
千景だけが、笑っていた。
けれどその笑みは、今にも紙のように破れそうだった。
「朔夜さま。何をなさるおつもりですか」
声は柔らかい。けれど、指先は袖の中で白くなるほど握られている。
その焦りに、影が喰いついた。
黒い靄が千景の耳元へ寄る。何かを囁くように、蠢く。千景の睫毛が一度震え、唇がかすかに噛みしめられた。
認められたい。
奪われたくない。
姉より上でいたい。
言葉にならない苦しさが、黒い影の中で甘い餌のように光っている気がした。
朔夜さまは刀をわずかに抜いた。
白い刃が、行灯の光を受けて細く光る。
その光に触れた途端、影がびくりと縮んだ。
さっきまで千景の肩を包み込んでいた黒い靄が、蛇のように身をくねらせ、千景の背中の奥へ引っ込む。完全に消えたわけではない。ただ、人の皮の後ろへ隠れるように、細く、深く、沈み込んだ。
朔夜さまの眉間に、深い皺が刻まれる。
「……今は斬れぬ」
低く吐き出された言葉だった。
私は、朔夜さまの横顔を見上げた。
「朔夜さまにも、見えて……」
「敵としてはな」
朔夜さまは刀を収めきらず、半ば抜いたまま千景を見据えている。
「だが、千景に絡み、人のいる蔵に根を伸ばしている。ここで斬れば、千景の身ごと裂くか、禍を薬材へ散らす」
薬蔵の中には、人が多すぎた。
父、継母、誠一郎さま、手代たち。薬箱。香材。煎じ薬の材料。もしあの黒い影が散れば、香炉の灰のように細かくなって、棚の隙間や人の喉へ入り込むかもしれない。
私は、喉の奥が冷えるのを感じた。
朔夜さまは刀を鞘に戻した。
かちん、と小さな音がした途端、千景の背後の影はさらに奥へ引っ込んだ。けれど消えてはいない。千景の袖口、髪の影、足元の草履の裏。そこに黒い筋が残っている。
乾いた薬草の匂いも、木箱の古い木の匂いも、香炉に残った灰の苦みも、一息ごとに遠ざかっていく。かわりに、甘い焦げ香が濃くなった。蜜を煮詰めて、黒く炭へ落としたような匂い。
千景の背後で、影が揺れていた。
それは、人の影ではなかった。行灯の光とは違う向きに伸び、壁にも床にも縫いつかず、ただ千景の肩の後ろにまとわりついている。黒い靄は、千景が息を吸うたびふくらみ、私を見て笑うように、細く端を震わせた。
「……千景の背後に、何かがいる」
私の声は、薬蔵の中でひどく小さかった。
けれど、朔夜さまは聞き逃さなかった。
刀の柄に触れた手が、わずかに沈む。
その瞬間、黒い影が濃くなった。
まるで、こちらが気づいたことを喜ぶように。
千景の肩先から、黒い靄が煙のように湧き上がる。香炉の灰から伸びた糸、薄紅の紙片から滲む黒、白檀の木箱の底に残っていた焦げた粉。それらが一斉に千景のほうへ吸い寄せられ、彼女の背後で一つの濁った夜になろうとしていた。
「小夜、下がれ」
朔夜さまの声が、刃のように低く落ちた。
私は一歩退いた。
朔夜さまは刀に手をかけたまま、ほんの半歩、千景へ踏み込んだ。羽織の裾が揺れ、薬蔵の床板がきしむ。その音だけで、父も継母も誠一郎さまも息を呑んだ。
千景だけが、笑っていた。
けれどその笑みは、今にも紙のように破れそうだった。
「朔夜さま。何をなさるおつもりですか」
声は柔らかい。けれど、指先は袖の中で白くなるほど握られている。
その焦りに、影が喰いついた。
黒い靄が千景の耳元へ寄る。何かを囁くように、蠢く。千景の睫毛が一度震え、唇がかすかに噛みしめられた。
認められたい。
奪われたくない。
姉より上でいたい。
言葉にならない苦しさが、黒い影の中で甘い餌のように光っている気がした。
朔夜さまは刀をわずかに抜いた。
白い刃が、行灯の光を受けて細く光る。
その光に触れた途端、影がびくりと縮んだ。
さっきまで千景の肩を包み込んでいた黒い靄が、蛇のように身をくねらせ、千景の背中の奥へ引っ込む。完全に消えたわけではない。ただ、人の皮の後ろへ隠れるように、細く、深く、沈み込んだ。
朔夜さまの眉間に、深い皺が刻まれる。
「……今は斬れぬ」
低く吐き出された言葉だった。
私は、朔夜さまの横顔を見上げた。
「朔夜さまにも、見えて……」
「敵としてはな」
朔夜さまは刀を収めきらず、半ば抜いたまま千景を見据えている。
「だが、千景に絡み、人のいる蔵に根を伸ばしている。ここで斬れば、千景の身ごと裂くか、禍を薬材へ散らす」
薬蔵の中には、人が多すぎた。
父、継母、誠一郎さま、手代たち。薬箱。香材。煎じ薬の材料。もしあの黒い影が散れば、香炉の灰のように細かくなって、棚の隙間や人の喉へ入り込むかもしれない。
私は、喉の奥が冷えるのを感じた。
朔夜さまは刀を鞘に戻した。
かちん、と小さな音がした途端、千景の背後の影はさらに奥へ引っ込んだ。けれど消えてはいない。千景の袖口、髪の影、足元の草履の裏。そこに黒い筋が残っている。



