無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

黒い糸は、薬蔵の床を這って、千景の足元へ伸びていた。

細い。けれど確かに。

千景の草履の影に触れ、袖の内側へ吸い込まれるように消えている。

私が見ていることに気づいたのか、千景がにこりと笑った。

「どうしたの、お姉さま。顔が真っ青よ。やはり無理をなさっているのではない?」

その声は蜜のように甘い。

けれど、黒い糸がその蜜に反応するように揺れた。

私は目を逸らせなかった。

「千景……」

名を呼ぶと、千景の目の奥が一瞬だけ冷えた。

「なあに、お姉さま」

「その袖……」

千景の指が、袖口をそっと押さえた。

その動きはわずかだった。けれど、隠す動きだった。

朔夜さまが気づき、目を細める。

「袖を見せろ」

千景の笑みが薄くなる。

「朔夜さま。女性の袖を改めるなど、少し乱暴ではございませんか」

誠一郎さまが慌てて前へ出た。

「そうです。千景は朝霧堂の大事な娘です。これ以上の無礼は——」

「無礼?」

朔夜さまの声が冷えた。

「城下に毒を撒く者を探している。袖を改める程度で名が傷つくなら、その名は薄い紙より軽い」

誠一郎さまは言葉を詰まらせた。

千景はしばらく朔夜さまを見ていた。

やがて、柔らかく息を吐く。

「分かりました。そこまで仰るなら」

千景はゆっくりと袖を広げた。

内側には何もない。

少なくとも、人の目には。

継母がほっと息をつき、父も肩の力を抜いた。誠一郎さまは勝ち誇ったように私を見た。

「小夜。君の見間違いだ。これ以上、千景を傷つけるのはやめたまえ」

また、その声。

見間違い。

私の中の何かが小さく萎みかけた。

けれど、その時、朔夜さまが私を見た。

「見えたのか」

短い問い。

私は、千景の袖口を見つめた。

人の目には何もない。布は清らかな桜色で、何も見えない。
けれど私には、袖の縫い目に黒い筋が残っているのが見える。香炉の灰と同じ匂い。薄紅の紙と同じ黒。

そして、千景の背後に——。

まだ形にならない黒いものが、ゆらりと立っていた。

私は一歩、後ろへ下がりそうになった。

それは影だった。

人の影のようでいて、光の向きとは合っていない。薬蔵の奥に灯る行灯は左から光を落としているのに、その黒い影は千景の右肩の後ろにまとわりついている。煙のように揺れ、蛇のように首をもたげ、千景の耳元へ口を寄せるように濃くなった。

千景はそれに気づいていない。

けれど、彼女の笑みが少し歪んだ瞬間、影が嬉しそうに膨らんだ。

「……見えます」

私の声は、かすかだった。

「袖に、黒い筋が。香の痕が残っています。それから……」

言葉が喉に引っかかった。

妖、と言うにはまだ早い。形は曖昧で、名もない。けれど、それは禁薬の痕だけではない。薬材や香に残る黒よりも、ずっと生きているものだった。

千景の心の奥にある焦りに触れるたび、濃くなる。
嫉みを吸い、認められたい苦しさを舐め、もっと、もっとと囁いている。

千景の笑みが消えた。

「お姉さま」

声はまだ優しい。

けれど、その奥に細い刃があった。

「また、私だけを悪者にするの? 昔からそう。自分ができないことを、私のせいにして。父上に認められないのも、誠一郎さまに選ばれなかったのも、全部、私のせいにするのね」

その言葉に、黒い影がぶわりと広がった。

薬蔵の空気が冷える。薬草の匂いが遠のき、甘い焦げ香が濃くなる。棚の影、香炉の灰、薄紅の紙片。すべてから黒い糸が震え、千景の背後の影へ向かって吸い寄せられていく。

朔夜さまの手が刀の柄にかかった。

「小夜、下がれ」

その声は低く、鋭い。

朔夜さまにも、何かが見えているのだろう。私ほど細い糸ではなく、敵の気配として。薬蔵の中に満ちる禍として。

けれど、私の目にはもっとはっきり見えていた。

千景の背後で、黒い影が笑っている。

顔はない。目もない。けれど笑っていると分かる。千景の焦りを喰い、嫉みを喰い、認められたいという苦い願いを蜜のようにすすっている。

千景が私を睨んだ。

その瞳に、一瞬、恐れが走った。

自分の足元が崩れかけていることへの恐れ。朔夜さまが私の言葉を信じていることへの焦り。私が無能のまま黙っていないことへの、暗い嫉み。

その感情に応えるように、影はさらに濃くなった。

黒い靄が千景の肩を包み、耳元で蠢く。

甘い焦げ香が、薬蔵いっぱいに満ちていく。

私は母の小袋を握りしめた。

――千景の背後に、何かがいる。