無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

その時だった。

朔夜さまが、一歩前へ出た。

ただ一歩。

けれど店の中の空気が、刀を抜かれたように静まり返った。

「小夜に無礼を働くな」

低い声だった。

大声ではない。怒鳴ってもいない。

それなのに、継母の口が閉じ、父の眉が強張り、誠一郎さまの顔から作りものの穏やかさが消えた。千景だけが、笑みを保ったまま、指先を袖の中で強く握ったのが見えた。

朔夜さまは続けた。

「この者は俺の調査に必要な者として連れてきた。小夜の見るもの、嗅ぎ分けるものは、既に城下の幼子を救う手がかりとなった。お前たちの家の内でどう扱っていたかは知らぬ。だが、俺の前で貶めることは許さない」

耳の奥が熱くなった。

私は隣に立つ黒い背を見つめた。

朝霧堂では、私はいつも一人だった。千景の言葉に傷ついても、継母に責められても、父に目を逸らされても、誠一郎さまに切り捨てられても、一人で立って、一人で折れた。

でも今は違う。

朔夜さまの背がある。低い声がある。私の見たものを、疑わず調査の中に置いてくれる人がいる。

私は一人で、この家に戻ってきたのではない。

その思いが胸に灯った時、私はようやく息を吸えた。

薬草と埃と、甘い焦げ香の混じる空気が肺に入る。それは苦かった。けれど、私はもう俯かなかった。