無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

朝霧堂へ向かう道は、知っている道のはずだった。

石畳の欠け。水路に架かる小さな橋。朝になると魚屋が桶を並べる辻。古い柳の根元に、いつも野良猫が丸くなっていることまで、私は覚えている。

それなのに、その朝の城下は、見知らぬ国のようだった。

風は冷たく、頬を撫でるたびに細い針で刺されたように痛い。春の陽は屋根瓦を淡く照らしているのに、胸の内側だけが夜の底に沈んでいた。鼻先には、干した薬草の匂い、味噌汁の湯気、湿った土の香りが流れてくる。そのすべての奥に、薄く薄く、甘い焦げ香が混じっている気がして、私は何度も息を浅くした。

朔夜さまは私の隣を歩いていた。

黒に近い藍の羽織。腰の刀。歩幅は私より大きいのに、私が遅れぬ速さで進んでいる。慰めの言葉はない。大丈夫だとも、怖がるなとも言わない。

けれど、通りの人々の視線が私へ集まるたび、朔夜さまは半歩だけ前へ出た。

その背が、風除けの垣のように私の前に立つ。

私は袖の中で、母の小袋を握った。

布は古く、指に馴染むほど柔らかい。小さな薄墨の印を撫でると、昨夜のことが胸の奥で静かに揺れた。

薄墨。

毒や禍を見る薬師の家だったらしい、という名。

夜の字を持つ者は、毒や禍を見ることがある、という言い伝え。

そして、朔夜さまの声。

——お前の見たものを、俺は信じる。

信じると言われたのに、足は震えた。

朝霧堂の暖簾を思うだけで、私は小さく縮んでしまう。裏口の冷たい板戸。煤の匂い。水桶の重さ。父の逸らした目。継母の尖った声。千景の、春の花のように柔らかい笑み。そして、誠一郎さまの声。

あの夜、首に下げられた札の重みが、まだ喉のあたりに残っている気がした。恥さらし。家の名を守るために、私に掛けられた文字。父は私を見なかった。継母は口元を歪めた。千景は悲しげな顔をして、私を罪へ沈めた。誠一郎さまは正しいことをしている顔で、私の言葉を切り捨てた。

息が詰まり、足が止まりかける。

「小夜」

低い声に、私は顔を上げた。

朔夜さまは前を向いたままだった。

「息を止めるな」

「……はい」

それだけだった。

けれど、私は自分が息を詰めていたことに気づいた。胸に空気を入れる。冷たい朝の匂いが、肺へ染みた。少しだけ痛くて、少しだけ目が覚める。

朔夜さまがちらりとこちらを見た。

「見えたものは、言え」

「はい」

それだけのやり取りで、袖の中の震えがほんの少しだけ収まった。