無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

夜がさらに更ける頃、朔夜さまの呼吸は落ち着いた。

眠ったわけではない。彼は眠ることにも警戒する人なのだろう。ただ、背を壁に預け、目を閉じていられるほどには、禍の流れが緩んでいた。

私は片づけをしながら、香炉の灰を整えた。蘇葉の香はもうほとんど消えている。白檀の甘さも薄い。部屋には湯と布と、人の汗の匂いが残っていた。それは不思議と、先ほどまでの甘い焦げ香よりもずっと安心できる匂いだった。

「小夜」

呼ばれて振り向く。

朔夜さまは目を閉じたままだった。

「明日、朝霧堂へ行く」

胸が、冷たく跳ねた。

朝霧堂。

その名だけで、指先がこわばる。父の顔。継母の声。千景の微笑み。誠一郎さまの冷たい眼差し。裏口から追い出された夜。首に下げられた札。

「朝霧堂、へ……」

声が掠れた。

朔夜さまは目を開ける。

「香包みと薬の関わりを調べる。薬帳、香の仕入れ、誰が何を配ったか。城下でこれ以上広がる前に押さえる必要がある」

「はい」

返事はできた。

けれど膝の上の手は震えていた。

朔夜さまは、私の震える手を見ながら言った。

「お前も同行しろ」

私は思わず顔を上げた。

「私も、ですか」

「香を見分けられるのはお前だ。黒い糸を追えるのもな」

「でも、私は……朝霧堂では」

言葉が続かなかった。

朝霧堂では、私は無能だ。家の恥だ。戻れば、きっとまた小さくなる。今日ここで少し役立てたとしても、あの家の空気を吸った瞬間、昔の私に戻ってしまうかもしれない。

朔夜さまは静かに言った。

「お前一人じゃない」

私は息を呑んだ。

「俺も行く。お前は俺の隣で見る。誰が何を言おうと、調査に必要な者として連れていく」

朔夜さまの声は、夜の柱のように揺るがなかった。

「朝霧堂が関わっているかは、分からない。だが、香包みは城下の子を殺しかけた」

私は母の小袋を握った。

薄墨の印。香包みの印。夜の字。黒い糸から、流れへ。

すべてが朝霧堂へつながっているのかもしれない。私が追い出されたあの家へ。私がずっと、見えるものを否定され続けた場所へ。

怖い。

けれど、弥太くんの細い声を思い出した。

かあちゃん、と呼んだ幼い声。母親の涙。薄紅の包みから伸びていた黒い糸。

目を逸らせば、また誰かの喉に絡む。

私は震える手を、もう片方の手で包んだ。布の感触。小袋の古い刺繍。爪の下に残る冷え。朔夜さまの脈の熱。

そのすべてを確かめてから、私は頭を下げた。

「……参ります」

声は小さかった。

けれど、確かに自分の声だった。

朔夜さまは頷いた。

「ならば、明朝。朝霧堂へ向かう」

障子の外は、月のない夜だった。

光のない闇の底で、笹が静かに揺れている。私はその音を聞きながら、母の小袋を胸に抱いた。

夜の字を持つ者は、毒や禍を見ることがある。

その言い伝えが本当なのか、まだ分からない。薄墨という名が私に何をもたらすのかも分からない。けれど今、同じ夜の字を持つ人が、私の見たものを信じると言った。

ならば、私はもう一度、あの家へ戻る。

追い出された娘としてではなく。

黒い糸の先を見届ける者として。