「小夜」
低い声が、闇を割った。
朔夜さまの手が、私の手首を掴んでいた。昨夜と同じ。けれど今夜の手は熱く、力が強い。
「呑まれるな」
私は目を開けた。
朔夜さまの顔が近い。青ざめて、汗に濡れて、それでも目だけはまっすぐ私を見ている。苦しんでいるのに、私が呑まれかけたことに気づいたのだ。
この人は、自分の苦しみの中でも、他人の危うさを見てしまう。
胸の奥が痛んだ。
「大丈夫です」
自分に言ったのか、朔夜さまに言ったのか分からなかった。
私はもう一度、息を整えた。黒い声はまだある。無能、毒、役立たず。けれどそれは、私のすべてではない。
弥太くんの喉が動いた瞬間。
母の小袋の温かさ。
朔夜さまが、事実として扱うと言った声。
それらを胸に置き、黒い流れを見た。
消そうとしてはいけない。
斬ることは、朔夜さまの領分だ。禍を敵として見つけ、刃で断ち、自分に引き受ける。それは私にはできない。私が同じことをしようとすれば、きっと呑まれる。
私に見えるのは、流れだ。
どこが詰まり、どこが濁り、どこに細い道を作ればよいのか。
「吐いてください。長く」
朔夜さまが息を吐く。
その吐く息に合わせて、私は手の圧を少し緩めた。吸う時には押さえすぎず、吐く時に、流れの端を撫でるように。布の温かさを伝え、香の青い匂いを通し、脈が乱れるところで指を置く。
黒い渦は抵抗した。
冷たい泥のように、指の下で重く動く。完全には動かない。けれど、端が少しだけほどけた。濁った水の中に、細い透明な筋が一本通る。
朔夜さまの呼吸が、深くなった。
「……っ」
短い息。苦痛ではなく、詰まっていたものがわずかに抜ける音。
私は手を離さなかった。強く押しすぎない。欲張らない。今、少し流れが緩んだからといって、さらに押せば崩れる。薬も同じだ。効くからといって盛りすぎれば毒になる。
「ここまでです」
私は額に汗が浮いていることに気づいた。
自分の手も震えている。指先は冷たいのに、掌だけが熱い。黒い流れはまだ朔夜さまの中にある。深い川のように重く、胸の奥と肩に沈んでいる。けれど先ほどのように暴れてはいない。
「完全には、できません」
悔しさが滲んだ。
「少ししか、緩められませんでした」
朔夜さまは目を閉じ、しばらく呼吸を整えていた。
やがて、ゆっくり目を開ける。
「少しで十分だ」
「でも」
「俺一人では、その少しもできん」
言葉が、胸に落ちた。
私は返す言葉を失った。
最強の武将。禍を斬り、人々に畏れられ、頼られる人。その人が、私に向かって「できない」と言った。自分の弱さを、短い言葉で差し出した。
それは信頼のようで、同時に傷口のようだった。
「朔夜さまは、禍を斬れるのに」
「斬れる。敵ならばな」
朔夜さまは自分の胸元へ目を落とした。
「だが、斬った後に俺の中へ残ったものは、敵の形をしていない。ただ重く沈む」
私は指先を見つめた。
「私には、敵としては見えません。怖いけれど……毒の流れのように見えます。薬が強すぎると乱れる場所、布で温めると緩む場所、呼吸で少し動く場所」
「俺には、どこをどう流せばよいか分からぬ。だから、お前が必要だ」
その言葉は、静かだった。
必要。
朝霧堂で私は、いつも不要だった。いても邪魔。言っても嘘。手を出せば失敗。千景の影にもなれない無能。
その私が、必要だと言われた。
信じたい。
けれど、怖い。
私は目を伏せた。
「私は……まだ、自分の見たものを信じきれません。母の小袋の印も、薄墨のことも、夜の字のことも。もしかしたら、都合のいい夢を見ているだけではないかと」
朔夜さまはしばらく黙っていた。
香炉の煙は細くなり、蘇葉の青い香が部屋に残っている。湯呑みの中の薬湯は冷めかけ、布からは温もりが引き始めていた。外では笹が揺れ、月のない夜が深く沈んでいる。
「お前が信じきれぬなら」
朔夜さまが言った。
「俺が先に信じる」
私は顔を上げた。
朔夜さまの目は、夜そのもののようだった。深く、暗く、けれど底に刃の光を隠している。
「お前の見たものを、俺は信じる」
息が止まった。
その一言は、私の中の古い戸を静かに開いた。
父に信じてもらえなかった。千景に笑われた。継母に叱られ、誠一郎さまに現実を見ないと言われた。私の見る黒い糸は、いつも私を一人にした。
けれど今、その黒いものを見ている私ごと、信じると言われた。
低い声が、闇を割った。
朔夜さまの手が、私の手首を掴んでいた。昨夜と同じ。けれど今夜の手は熱く、力が強い。
「呑まれるな」
私は目を開けた。
朔夜さまの顔が近い。青ざめて、汗に濡れて、それでも目だけはまっすぐ私を見ている。苦しんでいるのに、私が呑まれかけたことに気づいたのだ。
この人は、自分の苦しみの中でも、他人の危うさを見てしまう。
胸の奥が痛んだ。
「大丈夫です」
自分に言ったのか、朔夜さまに言ったのか分からなかった。
私はもう一度、息を整えた。黒い声はまだある。無能、毒、役立たず。けれどそれは、私のすべてではない。
弥太くんの喉が動いた瞬間。
母の小袋の温かさ。
朔夜さまが、事実として扱うと言った声。
それらを胸に置き、黒い流れを見た。
消そうとしてはいけない。
斬ることは、朔夜さまの領分だ。禍を敵として見つけ、刃で断ち、自分に引き受ける。それは私にはできない。私が同じことをしようとすれば、きっと呑まれる。
私に見えるのは、流れだ。
どこが詰まり、どこが濁り、どこに細い道を作ればよいのか。
「吐いてください。長く」
朔夜さまが息を吐く。
その吐く息に合わせて、私は手の圧を少し緩めた。吸う時には押さえすぎず、吐く時に、流れの端を撫でるように。布の温かさを伝え、香の青い匂いを通し、脈が乱れるところで指を置く。
黒い渦は抵抗した。
冷たい泥のように、指の下で重く動く。完全には動かない。けれど、端が少しだけほどけた。濁った水の中に、細い透明な筋が一本通る。
朔夜さまの呼吸が、深くなった。
「……っ」
短い息。苦痛ではなく、詰まっていたものがわずかに抜ける音。
私は手を離さなかった。強く押しすぎない。欲張らない。今、少し流れが緩んだからといって、さらに押せば崩れる。薬も同じだ。効くからといって盛りすぎれば毒になる。
「ここまでです」
私は額に汗が浮いていることに気づいた。
自分の手も震えている。指先は冷たいのに、掌だけが熱い。黒い流れはまだ朔夜さまの中にある。深い川のように重く、胸の奥と肩に沈んでいる。けれど先ほどのように暴れてはいない。
「完全には、できません」
悔しさが滲んだ。
「少ししか、緩められませんでした」
朔夜さまは目を閉じ、しばらく呼吸を整えていた。
やがて、ゆっくり目を開ける。
「少しで十分だ」
「でも」
「俺一人では、その少しもできん」
言葉が、胸に落ちた。
私は返す言葉を失った。
最強の武将。禍を斬り、人々に畏れられ、頼られる人。その人が、私に向かって「できない」と言った。自分の弱さを、短い言葉で差し出した。
それは信頼のようで、同時に傷口のようだった。
「朔夜さまは、禍を斬れるのに」
「斬れる。敵ならばな」
朔夜さまは自分の胸元へ目を落とした。
「だが、斬った後に俺の中へ残ったものは、敵の形をしていない。ただ重く沈む」
私は指先を見つめた。
「私には、敵としては見えません。怖いけれど……毒の流れのように見えます。薬が強すぎると乱れる場所、布で温めると緩む場所、呼吸で少し動く場所」
「俺には、どこをどう流せばよいか分からぬ。だから、お前が必要だ」
その言葉は、静かだった。
必要。
朝霧堂で私は、いつも不要だった。いても邪魔。言っても嘘。手を出せば失敗。千景の影にもなれない無能。
その私が、必要だと言われた。
信じたい。
けれど、怖い。
私は目を伏せた。
「私は……まだ、自分の見たものを信じきれません。母の小袋の印も、薄墨のことも、夜の字のことも。もしかしたら、都合のいい夢を見ているだけではないかと」
朔夜さまはしばらく黙っていた。
香炉の煙は細くなり、蘇葉の青い香が部屋に残っている。湯呑みの中の薬湯は冷めかけ、布からは温もりが引き始めていた。外では笹が揺れ、月のない夜が深く沈んでいる。
「お前が信じきれぬなら」
朔夜さまが言った。
「俺が先に信じる」
私は顔を上げた。
朔夜さまの目は、夜そのもののようだった。深く、暗く、けれど底に刃の光を隠している。
「お前の見たものを、俺は信じる」
息が止まった。
その一言は、私の中の古い戸を静かに開いた。
父に信じてもらえなかった。千景に笑われた。継母に叱られ、誠一郎さまに現実を見ないと言われた。私の見る黒い糸は、いつも私を一人にした。
けれど今、その黒いものを見ている私ごと、信じると言われた。



