「湯をいただきます」
部屋の隅にあった湯を確かめる。冷めかけていたので、火鉢のそばで温め直した。熱すぎてはいけない。冷たすぎてもいけない。指で器の外側を包み、母がしていたように温度を確かめる。
温かい。喉を通る温度。
陳皮と甘草を少しだけ入れ、香りを移す程度にする。生姜は迷って、ほんの欠片だけ。朔夜さまの体は熱を持っているが、指先は冷えている。内側で流れが乱れ、表と裏の温度が離れているように見えた。
「飲めますか」
朔夜さまは何も言わず、湯呑みを受け取った。
手が少し震えている。本人は隠そうとしているのだろう。けれど湯の水面が細かく揺れていた。
私は見ないふりをした。
朔夜さまは一口飲み、眉をひそめた。
「薄い」
「濃い薬は、今は流れを乱す気がします」
「気がする、か」
「はい」
昨日も同じことを言われた。たぶん、ばかげて聞こえるのだろう。けれど朔夜さまは、湯呑みを返さず、もう一口飲んだ。
私は布を湯で温め、固く絞った。
「腕を、診せてください」
朔夜さまは少しだけためらった。自分の弱さを差し出すことに慣れていない人の、短い抵抗。
だが、やがて彼は袖を少し捲った。
手首から肘へかけて、黒い筋が走っている。昨夜よりも太い。けれど、よく見るとただの筋ではない。皮膚の下の脈に沿うものと、脈とは別に逆らって流れるものがある。二つがぶつかるところで、黒が濁り、冷たい瘤のようになっていた。
「脈を取ります」
指を添えると、熱が伝わった。
内側は熱い。けれど表面はところどころ氷のように冷たい。脈は強いが速く、時々、黒い流れに押されるように乱れる。
私は目を閉じた。
指先の下で、血の流れと黒い流れが重なる。血は温かく、前へ進もうとしている。黒は重く、ところどころで逆巻いている。そこに朔夜さまの呼吸が重なると、詰まりが強くなる。
「息を、ゆっくり」
「またそれか」
「はい。昨夜より、少し長く吐いてください。吸うより、吐くほうを」
朔夜さまは眉をひそめたが、拒まなかった。
私は自分の呼吸を整えた。吸って、吐く。吐く息を長く。香の匂い、湯の匂い、布の湿り気。畳の冷たさ。朔夜さまの体から立つ熱。すべてを一つずつ確かめる。
黒い流れは、胸の奥で重く渦巻いている。
私は温めた布を手首に当て、指の腹で脈の少し上を押した。強く押しすぎると、流れが止まる。弱すぎると、何も変わらない。力を入れて、抜いて、また入れる。
「ここが詰まっています」
「……そこは傷跡だ」
朔夜さまの声が低い。
「昔、妖にやられた」
私は手を止めかけた。
「痛みますか」
「常だ」
常。
痛みが常であるという言葉が、胸に重く落ちた。
私はもう一枚の布を湯に浸し、温め直した。古傷の上に直接強く触れず、周りからゆっくり温める。黒い流れは、傷跡のところで渦を巻いていた。まるで、そこが道だと覚えてしまったように。
「ここを無理にほどくと、暴れます。周りから……少しずつ」
自分に言い聞かせるように呟く。
朔夜さまは黙っていた。
その沈黙は、拒絶ではなかった。私の手元を見ている。疑いもあるだろう。警戒もあるだろう。それでも、逃げてはいない。
私は温布で肩口を温めた。着物越しでも熱が強い。汗が首筋を伝い、鎖骨のあたりで光っている。そこに黒い流れが集まっていた。
「触れます」
朔夜さまは目を閉じたまま、小さく頷いた。
私は布越しに、鎖骨の下へ手を当てた。
瞬間、冷たい闇が指先を噛んだ。
耳元で、声がした。
——お前など、役に立たぬ。
——その手で、また誰かを殺す。
——母の印も毒の印だ。
息が詰まる。
香包みの印と母の小袋の印が重なる。薄紅の紙から漏れる黒い糸。母の小袋の薄墨の印。もし薄墨の名が毒に関わるなら、母は。私は。
部屋の隅にあった湯を確かめる。冷めかけていたので、火鉢のそばで温め直した。熱すぎてはいけない。冷たすぎてもいけない。指で器の外側を包み、母がしていたように温度を確かめる。
温かい。喉を通る温度。
陳皮と甘草を少しだけ入れ、香りを移す程度にする。生姜は迷って、ほんの欠片だけ。朔夜さまの体は熱を持っているが、指先は冷えている。内側で流れが乱れ、表と裏の温度が離れているように見えた。
「飲めますか」
朔夜さまは何も言わず、湯呑みを受け取った。
手が少し震えている。本人は隠そうとしているのだろう。けれど湯の水面が細かく揺れていた。
私は見ないふりをした。
朔夜さまは一口飲み、眉をひそめた。
「薄い」
「濃い薬は、今は流れを乱す気がします」
「気がする、か」
「はい」
昨日も同じことを言われた。たぶん、ばかげて聞こえるのだろう。けれど朔夜さまは、湯呑みを返さず、もう一口飲んだ。
私は布を湯で温め、固く絞った。
「腕を、診せてください」
朔夜さまは少しだけためらった。自分の弱さを差し出すことに慣れていない人の、短い抵抗。
だが、やがて彼は袖を少し捲った。
手首から肘へかけて、黒い筋が走っている。昨夜よりも太い。けれど、よく見るとただの筋ではない。皮膚の下の脈に沿うものと、脈とは別に逆らって流れるものがある。二つがぶつかるところで、黒が濁り、冷たい瘤のようになっていた。
「脈を取ります」
指を添えると、熱が伝わった。
内側は熱い。けれど表面はところどころ氷のように冷たい。脈は強いが速く、時々、黒い流れに押されるように乱れる。
私は目を閉じた。
指先の下で、血の流れと黒い流れが重なる。血は温かく、前へ進もうとしている。黒は重く、ところどころで逆巻いている。そこに朔夜さまの呼吸が重なると、詰まりが強くなる。
「息を、ゆっくり」
「またそれか」
「はい。昨夜より、少し長く吐いてください。吸うより、吐くほうを」
朔夜さまは眉をひそめたが、拒まなかった。
私は自分の呼吸を整えた。吸って、吐く。吐く息を長く。香の匂い、湯の匂い、布の湿り気。畳の冷たさ。朔夜さまの体から立つ熱。すべてを一つずつ確かめる。
黒い流れは、胸の奥で重く渦巻いている。
私は温めた布を手首に当て、指の腹で脈の少し上を押した。強く押しすぎると、流れが止まる。弱すぎると、何も変わらない。力を入れて、抜いて、また入れる。
「ここが詰まっています」
「……そこは傷跡だ」
朔夜さまの声が低い。
「昔、妖にやられた」
私は手を止めかけた。
「痛みますか」
「常だ」
常。
痛みが常であるという言葉が、胸に重く落ちた。
私はもう一枚の布を湯に浸し、温め直した。古傷の上に直接強く触れず、周りからゆっくり温める。黒い流れは、傷跡のところで渦を巻いていた。まるで、そこが道だと覚えてしまったように。
「ここを無理にほどくと、暴れます。周りから……少しずつ」
自分に言い聞かせるように呟く。
朔夜さまは黙っていた。
その沈黙は、拒絶ではなかった。私の手元を見ている。疑いもあるだろう。警戒もあるだろう。それでも、逃げてはいない。
私は温布で肩口を温めた。着物越しでも熱が強い。汗が首筋を伝い、鎖骨のあたりで光っている。そこに黒い流れが集まっていた。
「触れます」
朔夜さまは目を閉じたまま、小さく頷いた。
私は布越しに、鎖骨の下へ手を当てた。
瞬間、冷たい闇が指先を噛んだ。
耳元で、声がした。
——お前など、役に立たぬ。
——その手で、また誰かを殺す。
——母の印も毒の印だ。
息が詰まる。
香包みの印と母の小袋の印が重なる。薄紅の紙から漏れる黒い糸。母の小袋の薄墨の印。もし薄墨の名が毒に関わるなら、母は。私は。



