無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

私はそっと障子を開けた。

廊下の板は夜気で冷えていた。足袋を通して、ひやりとした感触が伝わる。行灯の火は細く、壁に揺れる影が長い。庭のほうから、湿った土と笹の青い匂いが流れてくる。

その奥に、甘い焦げ香があった。

昨夜より濃い。

私は息を呑み、離れへ向かった。

歩くほどに、黒いものが見えてくる。柱の節に沈んでいた澱みが、今夜は細い筋となって廊下を這っている。敷居の端、壁の隅、庭石の影。あちこちから薄い黒が流れ出し、離れのほうへ集まっていく。

まるで屋敷全体の夜が、朔夜さまの体へ戻ろうとしているようだった。

怖い。

足が止まりかける。

昨夜、禍は私の弱いところに入り込もうとした。無能、役立たず、姉なら退け。あの声は、まだ耳の奥に残っている。今夜はもっと濃い。近づけば、今度こそ呑まれるかもしれない。

それでも、離れの障子の向こうから、低く押し殺した息が聞こえた。

私は布包みを胸に抱え直した。

一人で耐えないでください。

まだ言葉にはできていないのに、その思いだけが先に胸を満たした。

縁側に着くと、障子の隙間から灯火が揺れていた。昨日と同じ部屋。同じ香炉。けれど今夜の空気は、より重かった。

香炉からは強い香が立っている。白檀に何か苦い香を混ぜたもの。白い煙は太く、部屋の上のほうで渦を巻いている。その下で、黒い靄が押し込められ、行き場をなくしていた。

朔夜さまは床に座していた。

背筋は伸びている。刀も傍らに置かれている。一見すれば、ただ静かに瞑目しているように見えた。けれど手の甲の筋は強張り、額には汗が浮いている。唇は色を失い、喉がわずかに震えていた。

黒い禍が、彼の胸の奥で渦を巻いている。

昨夜の黒は糸や筋だった。今夜は違う。もっと大きなもの。川のような、流れのようなものが、体の内側で濁り、詰まり、あふれかけている。

特に右肩から胸の中央へ向かう流れが重い。そこに黒い泥が溜まり、脈が来るたびに押し戻されている。脈の速さと黒い流れが重なり、息の道を圧迫している。

私は思わず障子に手をかけた。

「朔夜さま」

朔夜さまの瞼が開いた。

その目は鋭かった。苦しみの底からでも、敵を見つける目。けれど私だと分かった瞬間、眉がわずかに寄る。

「戻れ」

昨日と同じ言葉。
けれど昨日より、声が掠れていた。

「戻れません」

私は障子を開けた。

香が一気に顔へ押し寄せる。甘く、苦く、重い。胸が詰まりそうになる。目の奥が痛む。けれど私は布包みを持ったまま、中へ入った。

「来るなと言ったはずだ」

「はい」

「ならば、なぜ来た」

朔夜さまの声には、苛立ちよりも焦りがあった。

私は膝をついた。畳が冷たい。灯火の熱だけが頬に触れる。

「一人で耐えないでください。私に、診せてください」

言ってから、自分の声に驚いた。

震えていた。けれど、逃げてはいなかった。

朔夜さまは私を見た。

長い沈黙が落ちる。香炉の煙が揺れ、外の笹が風に鳴った。遠い夜のどこかで、犬が一声吠えた。

「お前に移る」

「移らないようにします」

「できるのか」

「……分かりません」

正直に答えると、朔夜さまの目がわずかに険しくなる。

私はすぐに続けた。

「でも、昨夜より、少し分かります。香が強すぎると、黒い流れが詰まります。脈と重なって、息が乱れます。ここに、黒が溜まっています」

私は自分の鎖骨の下あたりに手を当てた。

朔夜さまの目が、わずかに見開かれる。

「見えるのか」

「はい。糸ではなくて……流れのように。濁った水が、石に引っかかっているように見えます」

言いながら、私は自分の言葉が頼りなくて怖かった。見えるだけで、正しいかどうかは分からない。けれど朔夜さまの呼吸の乱れと、黒い流れの詰まりは、確かに重なっている。

朔夜さまはしばらく黙り、やがて短く息を吐いた。

「好きにしろ」

拒まれなかった。

それだけで、私は胸の奥の力が少し抜けた。