朔夜さまは少しの間、黙っていた。
そして静かに言った。
「俺は、お前の母を疑ったわけではない」
その声は冷たいようで、まっすぐだった。
「似た印を、誰かが使った可能性もある。古い家の印なら、借りた者、真似た者、歪めた者がいるかもしれん」
「古い、家……」
私が繰り返すと、朔夜さまは障子の外へ声をかけた。
「弥藤」
すぐに廊下の向こうで足音がした。
現れたのは、白髪の混じる痩せた男だった。屋敷の古参なのだろう。背は曲がっていないが、動きが静かで、長くこの家に仕えてきた人の気配がある。灰色の羽織を着て、手には古い帳面を抱えていた。
「お呼びでございますか」
「この印を見ろ」
弥藤と呼ばれた男は畳に膝をつき、香包みと母の小袋を順に見た。目の皺が深くなる。しばらく黙ったあと、低く息を吸った。
「……薄墨」
その名は、畳の上に落ちた墨の一滴のようだった。
薄墨。
聞いたことのないはずの名なのに、なぜか胸の奥が小さく震えた。母の小袋を握る指先が熱くなる。
「薄墨とは」
朔夜さまが問う。
弥藤は少し迷うように目を伏せた。
「古い薬師の名でございます。今ではほとんど絶えたと聞いておりますが……毒を見る家であったとか」
「毒を、見る……?」
私の声は、かすれた。
弥藤の目が私へ向いた。
「毒や、禍の流れを見る薬師の家だったらしい、と。私も古老から聞いただけでございます。詳しいことは、もう失われて久しい。印も、確かに似てはおりますが、同じものかどうかまでは……」
毒を見る家。
私の耳の奥で、その言葉が何度も返った。
薬師の家に生まれたのに、私は毒しか見えなかった。
薬の効き目でも、正しい処方でもなく、黒い糸ばかりが見える自分を呪った。だから朝霧堂で無能と呼ばれても、どこかで仕方がないのだと思っていた。
けれど、もし。
もし昔、本当に毒を見る薬師がいたのなら。
私が見てきたものは、ただの役立たずの幻ではなかったのだろうか。
そう思いかけて、すぐに胸が縮んだ。
信じるのが怖い。
信じた途端に、また踏みにじられたら。
私は小袋を膝に置いたまま、何も言えなかった。
朔夜さまは香包みを見つめている。
「薄墨の印を真似て、妖毒の香に使ったか。あるいは、薄墨の名を知る者がいるのか」
弥藤はさらに声を低くした。
「もう一つ、古い言い伝えがございます」
部屋の空気が少し冷えた。
障子の向こうで、庭の笹が鳴る。さらさらという音が、遠い雨のように聞こえた。
「『夜』の字を名に受けた者には、毒や禍を見る目が出ることがある、と」
夜。
その一字が、私の中で静かに光った。
小夜。
朔夜。
私の名にも、朔夜さまの名にも、同じ字がある。
夜の字。
母が私にくれた名。闇の中でも、小さな光を探せるように、と言っていた気がする。朔夜さまの名にある夜は、刃のように冷たく、深く、誰も近づけぬ黒い夜のようだった。
同じ字なのに、こんなに違う。
けれど、同じ字がある。
私は思わず朔夜さまを見た。
朔夜さまもまた、こちらを見ていた。
「朔夜さまも、禍を感じられるのですよね」
「ああ」
「黒い糸が、見えるのですか」
朔夜さまは少し考えるように目を細めた。
「糸ではない。俺には、敵の気配として分かる。どこにいるか。どこから襲うか。どれほど危ういか。……斬るべきものとしてだ」
言葉とともに、朔夜さまの指が刀の柄へ触れた。
その姿は、夜に立つ刃のようだった。禍を見つけ、斬り、引き受ける人。黒いものを敵として捉え、己の身に受けてでも退ける人。
「だが」
朔夜さまは香包みから私へ視線を移した。
「お前のように、喉に絡む糸や、脈に重なる筋として見ることはない」
私は指先を見下ろした。
「私も、分かっているわけではありません。見えても、何をすればよいのか……いつも、少ししか」
「少しでも、弥太は息をした」
その名を聞き、胸の奥が温かく、同時に痛くなる。
弥太くんは助かった。けれど完全ではない。今夜また熱が上がるかもしれない。あの香包みが他の子の枕元にも置かれているかもしれない。私が見落とせば、誰かがまた苦しむ。
私にできることは、まだあまりに小さい。
「薄墨……」
私は小袋の印を撫でた。
「母は、その家の者だったのでしょうか」
薄墨。
毒を見る薬師の家。
どこか遠い霧の向こうから、母の声が聞こえる気がした。
——見えるものを、嫌わないで。
私は小袋を胸に当てた。
でも、すぐには信じられなかった。
もし私の目に意味があるのだとしても、朝霧堂で無能と呼ばれてきた年月が消えるわけではない。父の逸らした目も、継母の叱責も、千景の微笑みも、誠一郎さまの冷たい声も、私の中にまだ棘として残っている。
意味があると言われたくらいで、私は私を許せない。
それでも、ほんの少しだけ、手の中の小袋が温かく感じた。
そして静かに言った。
「俺は、お前の母を疑ったわけではない」
その声は冷たいようで、まっすぐだった。
「似た印を、誰かが使った可能性もある。古い家の印なら、借りた者、真似た者、歪めた者がいるかもしれん」
「古い、家……」
私が繰り返すと、朔夜さまは障子の外へ声をかけた。
「弥藤」
すぐに廊下の向こうで足音がした。
現れたのは、白髪の混じる痩せた男だった。屋敷の古参なのだろう。背は曲がっていないが、動きが静かで、長くこの家に仕えてきた人の気配がある。灰色の羽織を着て、手には古い帳面を抱えていた。
「お呼びでございますか」
「この印を見ろ」
弥藤と呼ばれた男は畳に膝をつき、香包みと母の小袋を順に見た。目の皺が深くなる。しばらく黙ったあと、低く息を吸った。
「……薄墨」
その名は、畳の上に落ちた墨の一滴のようだった。
薄墨。
聞いたことのないはずの名なのに、なぜか胸の奥が小さく震えた。母の小袋を握る指先が熱くなる。
「薄墨とは」
朔夜さまが問う。
弥藤は少し迷うように目を伏せた。
「古い薬師の名でございます。今ではほとんど絶えたと聞いておりますが……毒を見る家であったとか」
「毒を、見る……?」
私の声は、かすれた。
弥藤の目が私へ向いた。
「毒や、禍の流れを見る薬師の家だったらしい、と。私も古老から聞いただけでございます。詳しいことは、もう失われて久しい。印も、確かに似てはおりますが、同じものかどうかまでは……」
毒を見る家。
私の耳の奥で、その言葉が何度も返った。
薬師の家に生まれたのに、私は毒しか見えなかった。
薬の効き目でも、正しい処方でもなく、黒い糸ばかりが見える自分を呪った。だから朝霧堂で無能と呼ばれても、どこかで仕方がないのだと思っていた。
けれど、もし。
もし昔、本当に毒を見る薬師がいたのなら。
私が見てきたものは、ただの役立たずの幻ではなかったのだろうか。
そう思いかけて、すぐに胸が縮んだ。
信じるのが怖い。
信じた途端に、また踏みにじられたら。
私は小袋を膝に置いたまま、何も言えなかった。
朔夜さまは香包みを見つめている。
「薄墨の印を真似て、妖毒の香に使ったか。あるいは、薄墨の名を知る者がいるのか」
弥藤はさらに声を低くした。
「もう一つ、古い言い伝えがございます」
部屋の空気が少し冷えた。
障子の向こうで、庭の笹が鳴る。さらさらという音が、遠い雨のように聞こえた。
「『夜』の字を名に受けた者には、毒や禍を見る目が出ることがある、と」
夜。
その一字が、私の中で静かに光った。
小夜。
朔夜。
私の名にも、朔夜さまの名にも、同じ字がある。
夜の字。
母が私にくれた名。闇の中でも、小さな光を探せるように、と言っていた気がする。朔夜さまの名にある夜は、刃のように冷たく、深く、誰も近づけぬ黒い夜のようだった。
同じ字なのに、こんなに違う。
けれど、同じ字がある。
私は思わず朔夜さまを見た。
朔夜さまもまた、こちらを見ていた。
「朔夜さまも、禍を感じられるのですよね」
「ああ」
「黒い糸が、見えるのですか」
朔夜さまは少し考えるように目を細めた。
「糸ではない。俺には、敵の気配として分かる。どこにいるか。どこから襲うか。どれほど危ういか。……斬るべきものとしてだ」
言葉とともに、朔夜さまの指が刀の柄へ触れた。
その姿は、夜に立つ刃のようだった。禍を見つけ、斬り、引き受ける人。黒いものを敵として捉え、己の身に受けてでも退ける人。
「だが」
朔夜さまは香包みから私へ視線を移した。
「お前のように、喉に絡む糸や、脈に重なる筋として見ることはない」
私は指先を見下ろした。
「私も、分かっているわけではありません。見えても、何をすればよいのか……いつも、少ししか」
「少しでも、弥太は息をした」
その名を聞き、胸の奥が温かく、同時に痛くなる。
弥太くんは助かった。けれど完全ではない。今夜また熱が上がるかもしれない。あの香包みが他の子の枕元にも置かれているかもしれない。私が見落とせば、誰かがまた苦しむ。
私にできることは、まだあまりに小さい。
「薄墨……」
私は小袋の印を撫でた。
「母は、その家の者だったのでしょうか」
薄墨。
毒を見る薬師の家。
どこか遠い霧の向こうから、母の声が聞こえる気がした。
——見えるものを、嫌わないで。
私は小袋を胸に当てた。
でも、すぐには信じられなかった。
もし私の目に意味があるのだとしても、朝霧堂で無能と呼ばれてきた年月が消えるわけではない。父の逸らした目も、継母の叱責も、千景の微笑みも、誠一郎さまの冷たい声も、私の中にまだ棘として残っている。
意味があると言われたくらいで、私は私を許せない。
それでも、ほんの少しだけ、手の中の小袋が温かく感じた。



