屋敷の奥の一室に通されると、朔夜さまは障子を閉め、机の上に白い布を広げた。
「置け」
短い声に、私は頷いた。
布包みをほどくと、薄紅色の紙が現れた。
桜貝の内側のような淡い紅。小さく折られ、赤い糸で結ばれている。薬袋よりもずっと小さく、子どもが宝物を包むような愛らしさがあった。けれど、かわいらしい紙の端から、黒い糸が一本、二本と滲み出ている。
それは風もないのに揺れていた。
「……見えるか」
朔夜さまが問う。
私は唇を湿らせた。
「はい。黒い糸が、紙の内側から出ています。弥太くんの喉に絡んでいたものと、同じ匂いがします」
「俺も気配を感じる」
朔夜さまは香包みへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。刀の柄に触れるような目だった。
「禍に近い。だが、妖そのものではない。……斬るなら、斬れる」
「斬ったら、中の香が散ります」
私の声は思ったより強く出た。
朔夜さまの目が、こちらを向く。
私は慌てて指先を握った。
「す、すみません。ですが、これはたぶん、香です。紙を破れば、粉が空気に混ざります。先ほどの話では、弥太くんの枕元に置いていたと聞きました。少しずつ吸い込んで、喉に絡んだのだと思います」
朔夜さまはしばらく私を見ていた。
責められるかと思った。武将のやり方に口を挟むな、と。けれど、朔夜さまはただ手を引き、低く言った。
「ならば、お前のやり方で見ろ」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
お前のやり方。
そんなものが私にあるのだろうか。朝霧堂で私は、千景のやり方を真似ることすら許されなかった。父の処方を学ぶことも、薬帳を開くことも、臼を使うことも、いつも誰かの目を盗むようにしていた。
けれど、今、白い布の上に置かれた薄紅の包みは、私が見なければならないものとしてそこにある。
私は袖から手拭いを取り出し、指先に巻いた。杉さんが用意してくれた清い布は、まだ洗い立ての匂いがした。冷えた井戸水と、日に干した木綿の匂い。その清さにすがるようにして、私は赤い糸の結び目へ指を近づけた。
黒い糸が、ぴくりと跳ねた。
「……っ」
指先が冷える。甘い香が濃くなる。耳の奥で、誰かが小さく笑った気がした。
——よい香でしょう。
——子どもはすぐ眠りますよ。
——薬より効くお守りです。
それは実際に聞いた声ではない。けれど香の中に、そういう囁きが染み込んでいるようだった。親の不安に寄り添うふりをして、弱いところへ入り込む声。
私は息を止めかけ、すぐにゆっくり吐いた。
「紙を、少しだけ開きます」
「無理をするな」
「はい」
赤い糸をほどくと、結び目は驚くほど簡単に緩んだ。誰でも開けられるように。幼子の母でも、年寄りでも、何も疑わず枕元に置けるように。
紙の内側には、細かい粉が包まれていた。
色は灰白色。ところどころに茶色い粒が混じっている。香木を砕いたもののように見える。けれど、その白い粉の間を、黒い筋が水の底の藻のように絡んでいた。
「香木、白檀に似せています。少し、桂皮も……。でも、焦げた蜜の匂いは薬草からではありません」
私は顔を近づけすぎないようにしながら、匂いを分けようとした。
香りは幾重にも重なっていた。白檀の甘さ。桂皮の温かさ。乾いた陳皮のような皮の香り。そこまでは人の体を温め、心を落ち着けるものだ。けれど、その底に、焦げついた黒い甘さがある。
蜜ではない。花でもない。
まるで、人の不安を煮詰めて、炭に染み込ませたような匂い。
「薬に似せてあるのか」
朔夜さまの声が低い。
「はい。咳や熱のある子に、家の者が警戒しない香です。苦すぎず、甘すぎず……でも、奥の黒い匂いが喉に絡む」
私は粉の端を小さな竹匙で寄せた。粉の下、薄紅の紙の内側に、小さな印が押されていることに気づいた。
「……印」
朔夜さまが身を寄せる。
紙の隅に、薄い墨で描かれた印があった。
丸にも、欠けた月にも見える。そこに細い草の葉のような線が三本、斜めに入っている。初めはただの飾りかと思った。けれど、見ているうちに胸の奥がざわめき始めた。
どこかで、見たことがある。
薄墨で押されたような、滲む印。
丸い月。細い葉。欠けた縁。
私は知らず、胸元へ手をやっていた。
母の小袋。
いつも肌身離さず持っている古い布袋が、そこにある。湯に濡れても、泥に汚れても、これだけは手放さずにいた。私は震える指で紐をほどき、小袋を取り出した。
小袋は、香包みよりずっと古い。
布はもとは白に近かったのだろう。今は薄く灰色がかり、角は柔らかく擦り切れている。母の手で縫われた細かい針目が、今も残っている。薬草の匂いと、古い紙の匂い。そこに、母の袖の匂いがまだほんの少しだけ残っている気がした。
「それは」
「母の遺した小袋です。丸薬を入れていました」
私は小袋の裏を返した。
そこには、糸で刺した小さな印がある。
ずっと、ただの飾りだと思っていた。母が好きだった模様なのだと。丸く欠けた月のような形に、細い草葉のような線が三本。色は薄い墨色。何度も触れて、糸は少し毛羽立っている。
香包みの印と、同じではない。
同じではないのに、似ていた。
まるで、同じ木から落ちた別々の葉のように。
「……似ています」
私は呟いた。
朔夜さまは小袋の印と香包みの印を見比べた。眉がわずかに動く。
「確かに、似ているな」
その言葉に、胸が冷えた。
母のものと、弥太くんを苦しめた香包みが似ている。
その事実が、喉の奥に苦く張りついた。母は優しい人だった。病人の手を握り、薬の苦さを和らげるために少しだけ蜜を加え、私の見えるものを叱らなかった人。そんな母の小袋と、妖毒を含んだ香包みが似ているなんて。
「違います」
思わず言っていた。
朔夜さまが私を見る。
私は小袋を握りしめた。
「母は、こんなものを作る人ではありません。苦しむ人に毒を渡すような人では」
言いながら、目の奥が熱くなった。誰も母を責めていない。朔夜さまは何も言っていない。それなのに、私は必死だった。
母の残した最後の温もりまで汚される気がして、怖かった。
「置け」
短い声に、私は頷いた。
布包みをほどくと、薄紅色の紙が現れた。
桜貝の内側のような淡い紅。小さく折られ、赤い糸で結ばれている。薬袋よりもずっと小さく、子どもが宝物を包むような愛らしさがあった。けれど、かわいらしい紙の端から、黒い糸が一本、二本と滲み出ている。
それは風もないのに揺れていた。
「……見えるか」
朔夜さまが問う。
私は唇を湿らせた。
「はい。黒い糸が、紙の内側から出ています。弥太くんの喉に絡んでいたものと、同じ匂いがします」
「俺も気配を感じる」
朔夜さまは香包みへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。刀の柄に触れるような目だった。
「禍に近い。だが、妖そのものではない。……斬るなら、斬れる」
「斬ったら、中の香が散ります」
私の声は思ったより強く出た。
朔夜さまの目が、こちらを向く。
私は慌てて指先を握った。
「す、すみません。ですが、これはたぶん、香です。紙を破れば、粉が空気に混ざります。先ほどの話では、弥太くんの枕元に置いていたと聞きました。少しずつ吸い込んで、喉に絡んだのだと思います」
朔夜さまはしばらく私を見ていた。
責められるかと思った。武将のやり方に口を挟むな、と。けれど、朔夜さまはただ手を引き、低く言った。
「ならば、お前のやり方で見ろ」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
お前のやり方。
そんなものが私にあるのだろうか。朝霧堂で私は、千景のやり方を真似ることすら許されなかった。父の処方を学ぶことも、薬帳を開くことも、臼を使うことも、いつも誰かの目を盗むようにしていた。
けれど、今、白い布の上に置かれた薄紅の包みは、私が見なければならないものとしてそこにある。
私は袖から手拭いを取り出し、指先に巻いた。杉さんが用意してくれた清い布は、まだ洗い立ての匂いがした。冷えた井戸水と、日に干した木綿の匂い。その清さにすがるようにして、私は赤い糸の結び目へ指を近づけた。
黒い糸が、ぴくりと跳ねた。
「……っ」
指先が冷える。甘い香が濃くなる。耳の奥で、誰かが小さく笑った気がした。
——よい香でしょう。
——子どもはすぐ眠りますよ。
——薬より効くお守りです。
それは実際に聞いた声ではない。けれど香の中に、そういう囁きが染み込んでいるようだった。親の不安に寄り添うふりをして、弱いところへ入り込む声。
私は息を止めかけ、すぐにゆっくり吐いた。
「紙を、少しだけ開きます」
「無理をするな」
「はい」
赤い糸をほどくと、結び目は驚くほど簡単に緩んだ。誰でも開けられるように。幼子の母でも、年寄りでも、何も疑わず枕元に置けるように。
紙の内側には、細かい粉が包まれていた。
色は灰白色。ところどころに茶色い粒が混じっている。香木を砕いたもののように見える。けれど、その白い粉の間を、黒い筋が水の底の藻のように絡んでいた。
「香木、白檀に似せています。少し、桂皮も……。でも、焦げた蜜の匂いは薬草からではありません」
私は顔を近づけすぎないようにしながら、匂いを分けようとした。
香りは幾重にも重なっていた。白檀の甘さ。桂皮の温かさ。乾いた陳皮のような皮の香り。そこまでは人の体を温め、心を落ち着けるものだ。けれど、その底に、焦げついた黒い甘さがある。
蜜ではない。花でもない。
まるで、人の不安を煮詰めて、炭に染み込ませたような匂い。
「薬に似せてあるのか」
朔夜さまの声が低い。
「はい。咳や熱のある子に、家の者が警戒しない香です。苦すぎず、甘すぎず……でも、奥の黒い匂いが喉に絡む」
私は粉の端を小さな竹匙で寄せた。粉の下、薄紅の紙の内側に、小さな印が押されていることに気づいた。
「……印」
朔夜さまが身を寄せる。
紙の隅に、薄い墨で描かれた印があった。
丸にも、欠けた月にも見える。そこに細い草の葉のような線が三本、斜めに入っている。初めはただの飾りかと思った。けれど、見ているうちに胸の奥がざわめき始めた。
どこかで、見たことがある。
薄墨で押されたような、滲む印。
丸い月。細い葉。欠けた縁。
私は知らず、胸元へ手をやっていた。
母の小袋。
いつも肌身離さず持っている古い布袋が、そこにある。湯に濡れても、泥に汚れても、これだけは手放さずにいた。私は震える指で紐をほどき、小袋を取り出した。
小袋は、香包みよりずっと古い。
布はもとは白に近かったのだろう。今は薄く灰色がかり、角は柔らかく擦り切れている。母の手で縫われた細かい針目が、今も残っている。薬草の匂いと、古い紙の匂い。そこに、母の袖の匂いがまだほんの少しだけ残っている気がした。
「それは」
「母の遺した小袋です。丸薬を入れていました」
私は小袋の裏を返した。
そこには、糸で刺した小さな印がある。
ずっと、ただの飾りだと思っていた。母が好きだった模様なのだと。丸く欠けた月のような形に、細い草葉のような線が三本。色は薄い墨色。何度も触れて、糸は少し毛羽立っている。
香包みの印と、同じではない。
同じではないのに、似ていた。
まるで、同じ木から落ちた別々の葉のように。
「……似ています」
私は呟いた。
朔夜さまは小袋の印と香包みの印を見比べた。眉がわずかに動く。
「確かに、似ているな」
その言葉に、胸が冷えた。
母のものと、弥太くんを苦しめた香包みが似ている。
その事実が、喉の奥に苦く張りついた。母は優しい人だった。病人の手を握り、薬の苦さを和らげるために少しだけ蜜を加え、私の見えるものを叱らなかった人。そんな母の小袋と、妖毒を含んだ香包みが似ているなんて。
「違います」
思わず言っていた。
朔夜さまが私を見る。
私は小袋を握りしめた。
「母は、こんなものを作る人ではありません。苦しむ人に毒を渡すような人では」
言いながら、目の奥が熱くなった。誰も母を責めていない。朔夜さまは何も言っていない。それなのに、私は必死だった。
母の残した最後の温もりまで汚される気がして、怖かった。



