薄い粥の上澄みが運ばれてくる頃には、弥太くんは小さく目を開けていた。焦点はまだ合わない。けれど母親の声に、まぶたが反応する。
「弥太、母ちゃんだよ。わかるかい」
幼子の唇が微かに動いた。
「……かあ、ちゃん」
母親が泣き崩れた。
周囲から、低いどよめきが起こる。
私は力が抜けそうになり、膝の上で手を握った。まだ終わりではない。熱は続いている。
「今日一日は目を離さないでください。体を冷やしすぎず、汗をかいたら布を替えて。薬湯は薄く、何度も少しずつ。粥は食べられれば上澄みから。胸がまた鳴るようなら、すぐ朔夜さまのお屋敷へ知らせてください」
私がそう言うと、母親は涙で濡れた顔のまま何度も頷いた。
「ありがとうございます……ありがとうございます、薬師さま」
薬師さま。
その言葉は、私には大きすぎた。
胸の奥に触れた途端、痛みが走る。朝霧堂で一度も私に向けられなかった呼び名。千景のためにだけあった呼び名。
私は首を振りかけた。
私など、と言いかけた。
その時、朔夜さまが私の少し後ろに立った。
何も言わない。ただ、そこにいる。
私は言葉を飲み込んだ。
「……どうか、温かくしてあげてください」
ようやくそれだけを言った。
人々の視線が、少し変わっていた。
疑いが消えたわけではない。悪評も、無能という噂も、そう簡単には消えない。けれど、さっきまで石だった視線のいくつかに、戸惑いが混じっている。私をどう見ればよいのかわからないという揺れ。
それだけで、十分だった。
少なくとも今、弥太くんは息をしている。
私は濡れた布を片づけようとして、買い物籠のそばに落ちている小さな包みに気づいた。
それは朝霧堂の薬袋とは違った。
紙は薄い薄紅色で、角に小さな香の印が押されている。薬袋よりずっと小さく、まるで匂い袋か菓子の包みのようだった。口は赤い糸で結ばれている。
私は手を伸ばす前に、匂いを感じた。
甘い。
焦げた蜜のような香。
鼻の奥に絡み、喉の底をざらりと撫でる。弥太くんの喉に絡んでいた黒い糸と同じ匂いだった。
指先が冷える。
「これは……?」
母親が涙を拭いながら顔を上げた。
「それは……昨日、通りで配っていたものです。子どもが咳をしなくなるお守りだと。よい香だから枕元に置けって……」
「誰に」
朔夜さまの声が鋭くなった。
母親は怯えたように肩をすくめた。
「顔は、布で隠していて……」
私は包みを布越しに拾った。薄紅の紙の内側から、黒い靄が細く漏れている。朝霧堂の薬袋には見えなかったもの。けれど、この包みからは、はっきりと黒い糸が伸びていた。
朔夜さまが隣へ膝をついた。
「触るな。禍がある」
「はい。直接は触れていません」
私は布で包みを覆い、息を浅くした。甘い焦げ香が、それでも布を抜けてくる。香木に似せている。薬の匂いに紛れやすく、母親たちが警戒しない甘さ。けれど奥に、炭のような苦みがある。
「この匂いは、昨日の薬に混じっていたものと同じです」
私は手の中の包みを見つめた。
甘い焦げ香が、朝の城下に細く漂っている。弥太くんの小さな息、母親のすすり泣き、人々のざわめき。そのすべての下で、黒い糸はまだどこかへ続いていた。
私はその先を、まだ知らない。
けれどもう、目を逸らすことはできなかった。
「弥太、母ちゃんだよ。わかるかい」
幼子の唇が微かに動いた。
「……かあ、ちゃん」
母親が泣き崩れた。
周囲から、低いどよめきが起こる。
私は力が抜けそうになり、膝の上で手を握った。まだ終わりではない。熱は続いている。
「今日一日は目を離さないでください。体を冷やしすぎず、汗をかいたら布を替えて。薬湯は薄く、何度も少しずつ。粥は食べられれば上澄みから。胸がまた鳴るようなら、すぐ朔夜さまのお屋敷へ知らせてください」
私がそう言うと、母親は涙で濡れた顔のまま何度も頷いた。
「ありがとうございます……ありがとうございます、薬師さま」
薬師さま。
その言葉は、私には大きすぎた。
胸の奥に触れた途端、痛みが走る。朝霧堂で一度も私に向けられなかった呼び名。千景のためにだけあった呼び名。
私は首を振りかけた。
私など、と言いかけた。
その時、朔夜さまが私の少し後ろに立った。
何も言わない。ただ、そこにいる。
私は言葉を飲み込んだ。
「……どうか、温かくしてあげてください」
ようやくそれだけを言った。
人々の視線が、少し変わっていた。
疑いが消えたわけではない。悪評も、無能という噂も、そう簡単には消えない。けれど、さっきまで石だった視線のいくつかに、戸惑いが混じっている。私をどう見ればよいのかわからないという揺れ。
それだけで、十分だった。
少なくとも今、弥太くんは息をしている。
私は濡れた布を片づけようとして、買い物籠のそばに落ちている小さな包みに気づいた。
それは朝霧堂の薬袋とは違った。
紙は薄い薄紅色で、角に小さな香の印が押されている。薬袋よりずっと小さく、まるで匂い袋か菓子の包みのようだった。口は赤い糸で結ばれている。
私は手を伸ばす前に、匂いを感じた。
甘い。
焦げた蜜のような香。
鼻の奥に絡み、喉の底をざらりと撫でる。弥太くんの喉に絡んでいた黒い糸と同じ匂いだった。
指先が冷える。
「これは……?」
母親が涙を拭いながら顔を上げた。
「それは……昨日、通りで配っていたものです。子どもが咳をしなくなるお守りだと。よい香だから枕元に置けって……」
「誰に」
朔夜さまの声が鋭くなった。
母親は怯えたように肩をすくめた。
「顔は、布で隠していて……」
私は包みを布越しに拾った。薄紅の紙の内側から、黒い靄が細く漏れている。朝霧堂の薬袋には見えなかったもの。けれど、この包みからは、はっきりと黒い糸が伸びていた。
朔夜さまが隣へ膝をついた。
「触るな。禍がある」
「はい。直接は触れていません」
私は布で包みを覆い、息を浅くした。甘い焦げ香が、それでも布を抜けてくる。香木に似せている。薬の匂いに紛れやすく、母親たちが警戒しない甘さ。けれど奥に、炭のような苦みがある。
「この匂いは、昨日の薬に混じっていたものと同じです」
私は手の中の包みを見つめた。
甘い焦げ香が、朝の城下に細く漂っている。弥太くんの小さな息、母親のすすり泣き、人々のざわめき。そのすべての下で、黒い糸はまだどこかへ続いていた。
私はその先を、まだ知らない。
けれどもう、目を逸らすことはできなかった。



