無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

私は小さく息を吸った。

町の匂いが入ってくる。焼いた餅の甘い匂い。魚の匂い。湿った土。人の汗。薬屋の軒先から漂う乾いた生薬の匂い。そして、その奥に——ほんのかすかに、甘い焦げ香が混じっていた。

私は足を止めかけた。

朔夜さまが横目で見る。

「見えたか」

「まだ、わかりません。ただ、匂いが……」

言いかけた時、通りの向こうで悲鳴が上がった。

「誰か! 誰か来ておくれ!」

女の声だった。

人々がざわりと動く。市場の一角、八百屋と油屋の間の狭い場所に、人垣ができていた。私は反射的にそちらへ足を向けた。けれど、すぐに立場を思い出して止まる。

朔夜さまは私を見ずに言った。

「行くぞ」

その一言で、私は駆け出した。

人垣の中には、若い母親が座り込んでいた。腕に抱かれているのは、まだ五つか六つほどの幼子だった。丸い頬は赤黒く染まり、唇は乾いて白い。小さな胸が苦しげに上下し、喉からひゅうひゅうと細い音が漏れている。

「朝から熱があって……さっきまで水を飲めたのに、急に……!」

母親は涙で顔を濡らしていた。そばには祖母らしい老女が震える手で扇いでいる。地面には小さな包みや買い物籠が散らばり、野菜の青い匂いと人いきれが混じってむっとした。

幼子の額からは汗が流れている。汗は熱いはずなのに、首筋には冷たい脂汗も浮いていた。

私は一歩近づいた。

「診せて——」

言葉は、途中で止まった。

周囲の目が私に向いたからだ。

「朝霧堂の娘だ」

誰かが言った。

「やめろ、また死人が出る」

「千景さまならともかく、その姉だろう?」

「無能だと聞いたぞ」

胸の中に古い棘が刺さった。刺さり慣れたはずの棘なのに、人前では痛みが増す。母親の目にも迷いが浮かぶ。助けを求めながら、私を信じきれない目。

当然だと思った。

昨日までの私なら、そこで引いた。ごめんなさいと言って、後ろへ下がった。誰かに罵られる前に。

けれど幼子の喉から、また細い音が漏れた。

ひゅう、と。

まるで小さな笛が折れそうに鳴る音。

その瞬間、私は見た。

幼子の胸元に、黒い糸が一本絡んでいる。昨日の男のように太くはない。けれど喉の奥へ伸び、呼吸の道に巻きついている。

私は息を吸った。

怖い。人の目が怖い。けれど、この子の息が止まるほうが、もっと怖かった。

私は母親の前に膝をついた。

「診せてください。私に、できることがあるかもしれません」

自分の声は震えていた。

でも、言えた。

周囲がざわめく。

「何を勝手に」

「危ないだろう」

「朔夜さま、その娘に任せるのですか」

その時、朔夜さまの足音が一つ鳴った。

ざり、と乾いた音。

「この娘が診る」

朔夜さまは短く言った。

「邪魔をする者は下がれ」

誰も、すぐには動かなかった。けれど朔夜さまの視線が一度巡ると、人垣が少しずつ後ろへ退いた。母親は幼子を抱きしめたまま、私と朔夜さまを交互に見た。

「本当に……助けられますか」

その問いは、刃ではなかった。藁にすがる手だった。

私は嘘をつけなかった。

「必ずとは、言えません。でも、診なければわかりません」

母親の唇が震えた。

やがて、彼女は幼子の体を少しだけ私のほうへ向けた。

「お願いします」

私は頷き、手拭いを広げた。まず幼子の額に触れる。熱い。火鉢に近づけた掌のような熱。けれど手足の先は冷えている。熱が上にこもり、巡りが悪い。

「お名前は」

「弥太です」

母親が答える。

「弥太くん。少しだけ、手を触りますね」

聞こえているかはわからない。けれど私はそう声をかけてから、小さな手首に指を当てた。

脈は速い。弱くはないが、時々細く乱れる。その乱れに合わせて、黒い糸が喉のあたりで締まった。熱だけなら、脈はこうは引っかからない。そして、ほんのわずかに、甘く焦げた香り。

私は顔を近づけた。

母親が不安そうにする。

「汗を見ています」

額、首筋、胸元。汗の色は普通だ。黄ばみも黒ずみもない。

「今朝、何を口にしましたか」

「粥を少しと、水を。昨日、咳が出て……朝霧堂の薬をもらいました」

朝霧堂。

その名に、私の指先が一瞬だけ冷えた。

「朝霧堂の薬袋はありますか」

祖母が慌てて懐から紙包みを出した。見慣れた紙。見慣れた折り方。墨で書かれた薬名は、千景の字ではなく店の手代のものだった。私は開いて匂いを嗅ぐ。

葛根、桂枝、芍薬、甘草。咳と発熱に使う処方。量は幼子向けに薄くしてある。薬草の香りはやや強いが、甘い焦げ香はない。

黒い糸も、ほとんど見えない。

(朝霧堂の薬そのものではない……?)

薬そのものが毒でないと知って、どこかでほっとしている自分がいる。けれど弥太くんの喉の黒い糸は確かにある。

私は幼子の口元に耳を寄せた。呼吸は浅く、喉に痰が絡んでいる。胸をそっと触ると、熱とともにこわばりがあった。

「熱の病があります。けれど、それだけではありません。喉の奥に、何かが絡んでいます」

「何かって……」

母親が青ざめる。

私は言葉を選んだ。

妖毒と言えば、人々はまた騒ぐかもしれない。けれど言わなければ、手当てを誤る。

「薬ではない香のようなものが、息の道を塞いでいます。まず熱を逃がし、喉を潤して、吐けるものは吐かせます。冷たい水を急に飲ませないでください。少しずつ、温かい湯を」

周囲の誰かが息を呑んだ。

「湯なら、うちにある!」

近くの茶屋の女が駆け出した。朔夜さまが短く命じる。

「清い布も持ってこい。火を借りる」

その声に、人々が動き始めた。先ほどまで私を疑っていた者たちが、朔夜さまの言葉で散っていく。私は感謝する暇もなく、持っていた手拭いを水で濡らしてもらい、固く絞った。

冷やしすぎてはいけない。幼子の手足は冷えている。額と首筋、脇の下を少しずつ拭き、熱を逃がす。乾いた唇には、湯を含ませた布を当てた。

茶屋の女が湯を持ってくる。湯気は白く、茶碗の縁に朝の光が揺れていた。

私は杉さんから渡された陳皮と生姜をほんの少し取り出した。幼子に生姜は強すぎる。だから湯に香りが移る程度に、少量だけ。甘草も少し。喉を潤し、咳を和らげるために。

「煎じるほど濃くしません。薄い薬湯にします」

「そんな少しで効くのか」

誰かが言った。

私の肩がこわばる。

朔夜さまがその者を見た。

それだけで、言葉は消えた。

私は深く息を吸い、湯の色を見た。薄い黄金色。陳皮の香りがふわりと立ち、生姜の辛みは奥に少しだけ。甘草の甘さが舌に残る程度。これなら喉を通る。

「弥太くん、少しずつ飲みましょう」

母親に支えてもらい、私は匙で一滴ずつ口に含ませた。初めはこぼれた。次も、ほとんど唇を濡らすだけだった。けれど三度目、幼子の喉が小さく動いた。

「飲んだ……!」

母親の声が震える。

私は頷き、幼子の背に布を当て、母親に抱き方を変えてもらった。

「少し上体を起こしてください。そうです。胸を圧迫しないように」

弥太くんが咳き込んだ。

苦しげに体が跳ねる。母親が悲鳴を上げかけたが、私は首を振った。

「咳を止めないで。出せるものを出します」

幼子の口元に布を当てる。痰が少し出た。淡い黄色に、ほんの細い黒い筋が混じっている。普通の痰なら、こうはならない。私は布を畳んで隠し、鼻で匂いを確かめた。

甘い焦げ香。

けれど、朝霧堂の薬袋からはしなかった匂いだ。

「小夜」

朔夜さまの声が低く届く。

私は布を見せず、目だけで頷いた。

「黒があります。でも薬袋ではありません」

朔夜さまの目が細くなる。

幼子の呼吸が少しずつ変わってきた。ひゅうひゅうと鳴っていた音が、まだ荒いが、深さを取り戻し始める。頬の赤黒さも、ほんのわずかに薄くなった。私は額の布を替え、脈をもう一度取る。

速い。けれど先ほどより力がある。飛ぶような乱れも減っている。

「お粥はありますか」

「家に戻れば……」

母親が答える。

近くの茶屋の女が言った。

「白粥なら今朝の残りがあるよ。薄めてすぐ持ってくる」

「お願いします。塩は少しだけで。熱いうちは食べさせず、冷まして、上澄みから」

自分の口から指示が出ることに、私は内心で驚いていた。

朝霧堂では、私はいつも誰かの指示を聞く側だった。千景が言い、父が頷き、私は動く。それなのに今、幼子の脈と熱を見て、薬湯の濃さを決め、粥の加減を伝えている。

間違えてはいけない。

怖い。

けれど、恐ろしさの底に、別のものがあった。

目の前の子を助けたい。

それだけが、私の背を押していた。