薬師の家に生まれたのに、私は毒しか見えなかった。
けれどその毒を、はじめて誰かが「見えるもの」として扱ってくれた。
夜の城下は、まだ騒ぎの熱を残していた。倒れていた男が足軽たちに担がれ、遠ざかっていく。提灯の火が揺れ、泥に落ちた桜の花びらが、血の色のように黒ずんで見えた。
朔夜さまは外した札を、しばらく手の中で見下ろしていた。
「恥さらし」
私の首に下げられていたその札を、朔夜さまの指が二つに折った。
ぱきり、と乾いた音がした。
たったそれだけで、喉の奥に詰まっていた何かが崩れた。泣きたくないのに、目の奥が熱くなる。私は慌てて俯いた。涙をこぼせば、また弱いと言われる気がした。
「立てるか」
低い声が降ってくる。
私は膝に力を入れた。けれど、夜気に冷えた足は思うように動かず、立ち上がりかけてよろめいた。
黒い鎧の袖が、すっと差し出された。
触れてよいものか迷った。あの腕には、さっき私が見た黒い筋がまだ残っている。鎧の隙間、手首のあたり。月明かりの下で、皮膚の奥を這うような黒が、脈に合わせてかすかに動いていた。
「怖いなら、袖を掴め」
怖いのではない、と言いたかった。
けれど、何が怖いのか、自分でもわからなかった。朔夜さまが怖いのか。黒い禍が怖いのか。それとも、誰かに手を差し伸べられることが怖いのか。
私は震える指で、黒い袖の端を掴んだ。
布は夜露を含んで冷たく、それでも人の体温が少しだけ残っていた。
朔夜さまは何も言わず、私を立たせると、黒馬のそばへ歩いた。馬は大きく、息を吐くたび白い煙のようなものが鼻先からこぼれた。鬣は墨を流したように黒く、目だけが濡れた玉のように光っている。
「乗れ。俺の屋敷に行くぞ」
「え……」
思わず顔を上げると、朔夜さまは淡々と言った。
「朝霧堂へ戻すわけにはいかない。お前を追放した者が、別の罪を着せるかもしれぬ」
胸が、ひゅっと縮んだ。
家を出れば、すべて終わるのだと思っていた。けれど、札を外されても、朝霧堂の影は私の足首に絡みついたままだ。千景の微笑み。父の逸らした目。継母と誠一郎さまの冷えた声。
——あの家から離れても、私はまだ、あの家の娘なのだ。
「……私が、朔夜さまの屋敷へ行っても、よいのでしょうか」
問う声は、自分でも頼りなかった。
朔夜さまは馬の鐙に足をかけ、私を振り返る。
「よいかどうかは、俺が決める」
それは優しい言葉ではなかった。
けれど、私を責める言葉でもなかった。
だから私は、差し出された手に自分の手を重ねた。硬い掌だった。剣を握る人の掌。薬草を揉み、鍋底を磨き、灰を掻いた私の手とは違う硬さ。それなのに、痛くないように加減して引き上げてくれた。
馬上は高く、町の灯が足元に沈んだ。私は朔夜さまの前に座らされ、落ちぬように馬の鞍を掴んだ。背中のすぐ後ろに鎧の気配がある。黒い鉄の冷たさと、かすかに血と鉄錆の匂い。さらにその奥に、甘く焦げた禍の香が薄く漂っていた。
「走る。口を閉じていろ」
言葉が終わる前に、馬が夜を蹴った。
風が頬を打つ。城下の家々が、提灯が、桜の枝が、すべて後ろへ流れていく。春の夜なのに風は冷たく、私の汚れた袖をはためかせた。荷と呼べるものは、背負わされた小さな包みと、母の小袋だけ。何もかも失ったはずなのに、小袋だけは胸元で小さく温かい。
私は片手でそっと押さえた。
母が縫ってくれた古い布。何度も触れたせいで角は柔らかくなり、薬草の匂いが染みついている。丸薬はもう欠けてしまった。さっき使ってしまったから。
(お母さま……私は、間違っていなかったのでしょうか)
問いかけても、答えはない。
ただ、夜気の底に、甘い焦げ香がまだ細く尾を引いていた。朝霧堂の薬。黒い糸。死んだ人たち。私を責める目。
けれどその毒を、はじめて誰かが「見えるもの」として扱ってくれた。
夜の城下は、まだ騒ぎの熱を残していた。倒れていた男が足軽たちに担がれ、遠ざかっていく。提灯の火が揺れ、泥に落ちた桜の花びらが、血の色のように黒ずんで見えた。
朔夜さまは外した札を、しばらく手の中で見下ろしていた。
「恥さらし」
私の首に下げられていたその札を、朔夜さまの指が二つに折った。
ぱきり、と乾いた音がした。
たったそれだけで、喉の奥に詰まっていた何かが崩れた。泣きたくないのに、目の奥が熱くなる。私は慌てて俯いた。涙をこぼせば、また弱いと言われる気がした。
「立てるか」
低い声が降ってくる。
私は膝に力を入れた。けれど、夜気に冷えた足は思うように動かず、立ち上がりかけてよろめいた。
黒い鎧の袖が、すっと差し出された。
触れてよいものか迷った。あの腕には、さっき私が見た黒い筋がまだ残っている。鎧の隙間、手首のあたり。月明かりの下で、皮膚の奥を這うような黒が、脈に合わせてかすかに動いていた。
「怖いなら、袖を掴め」
怖いのではない、と言いたかった。
けれど、何が怖いのか、自分でもわからなかった。朔夜さまが怖いのか。黒い禍が怖いのか。それとも、誰かに手を差し伸べられることが怖いのか。
私は震える指で、黒い袖の端を掴んだ。
布は夜露を含んで冷たく、それでも人の体温が少しだけ残っていた。
朔夜さまは何も言わず、私を立たせると、黒馬のそばへ歩いた。馬は大きく、息を吐くたび白い煙のようなものが鼻先からこぼれた。鬣は墨を流したように黒く、目だけが濡れた玉のように光っている。
「乗れ。俺の屋敷に行くぞ」
「え……」
思わず顔を上げると、朔夜さまは淡々と言った。
「朝霧堂へ戻すわけにはいかない。お前を追放した者が、別の罪を着せるかもしれぬ」
胸が、ひゅっと縮んだ。
家を出れば、すべて終わるのだと思っていた。けれど、札を外されても、朝霧堂の影は私の足首に絡みついたままだ。千景の微笑み。父の逸らした目。継母と誠一郎さまの冷えた声。
——あの家から離れても、私はまだ、あの家の娘なのだ。
「……私が、朔夜さまの屋敷へ行っても、よいのでしょうか」
問う声は、自分でも頼りなかった。
朔夜さまは馬の鐙に足をかけ、私を振り返る。
「よいかどうかは、俺が決める」
それは優しい言葉ではなかった。
けれど、私を責める言葉でもなかった。
だから私は、差し出された手に自分の手を重ねた。硬い掌だった。剣を握る人の掌。薬草を揉み、鍋底を磨き、灰を掻いた私の手とは違う硬さ。それなのに、痛くないように加減して引き上げてくれた。
馬上は高く、町の灯が足元に沈んだ。私は朔夜さまの前に座らされ、落ちぬように馬の鞍を掴んだ。背中のすぐ後ろに鎧の気配がある。黒い鉄の冷たさと、かすかに血と鉄錆の匂い。さらにその奥に、甘く焦げた禍の香が薄く漂っていた。
「走る。口を閉じていろ」
言葉が終わる前に、馬が夜を蹴った。
風が頬を打つ。城下の家々が、提灯が、桜の枝が、すべて後ろへ流れていく。春の夜なのに風は冷たく、私の汚れた袖をはためかせた。荷と呼べるものは、背負わされた小さな包みと、母の小袋だけ。何もかも失ったはずなのに、小袋だけは胸元で小さく温かい。
私は片手でそっと押さえた。
母が縫ってくれた古い布。何度も触れたせいで角は柔らかくなり、薬草の匂いが染みついている。丸薬はもう欠けてしまった。さっき使ってしまったから。
(お母さま……私は、間違っていなかったのでしょうか)
問いかけても、答えはない。
ただ、夜気の底に、甘い焦げ香がまだ細く尾を引いていた。朝霧堂の薬。黒い糸。死んだ人たち。私を責める目。



