ほんのわずかだった。闇が消えたわけではない。禍が癒えたわけでもない。ただ、詰まっていた水路に小さな隙間ができたように、呼吸の流れが緩んだ。
朔夜さまの肩が落ちた。
苦しげに歪んでいた眉間が、少しだけほどける。脈の飛びも、先ほどより間が空いた。私は濡れ布を替え、手首へ巻くように当てた。
「……何をした」
朔夜さまの声は掠れていた。
「わかりません」
正直に答えると、朔夜さまは目を細めた。
「わからぬことをしたのか」
「はい。申し訳ありません」
「謝るところではない」
そう言われ、私は戸惑った。
怒られると思った。余計なことをするな、無能のくせに、と。けれど朔夜さまは、ただ私の指先を見た。
「痛むか」
言われて初めて、自分の指が小刻みに震えていることに気づいた。爪の下に黒い点のようなものが浮かび、すぐに消えた。
「少し、冷たいだけです」
朔夜さまは水差しを取ろうとした。けれど体がまだつらいのか、動きが鈍い。私は先に湯呑みを差し出した。
「水を」
彼は受け取り、一口飲んだ。喉が動く。その仕草を見ていると、さっきまで遠い英雄だった人が、急に生身の人に見えた。
痛みを堪え、水を飲み、息を整える人。
私は目を伏せた。
「勝手に見てしまって、本当に申し訳ありません」
「忘れろ」
朔夜さまは言った。
「今見たものは、誰にも言うな」
「はい」
「屋敷の者にもだ」
「はい」
「お前も、近づくな」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
けれど次の瞬間、朔夜さまは低く付け加えた。
「……今夜は助かった」
私は顔を上げた。
灯火が揺れている。朔夜さまの顔はまだ青ざめていたが、先ほどの苦痛は少し薄れていた。黒い流れは残っている。けれど暴れるような動きではなく、深い川の底をゆっくり進む影のようになっていた。
助かった。
その言葉が、体の奥に落ちた。
私が誰かの役に立ったのだと、信じてもよいのだろうか。無能と呼ばれ、家の恥と言われ、何をしても千景の邪魔だと責められてきた私が。
「私は……何も、ちゃんとはできていません」
「できたかどうかは、俺が決める」
門前で聞いた言葉に似ていた。
『よいかどうかは、俺が決める』
私の中でずっと、父や継母や千景や誠一郎さまの声が、私の価値を決めていた。無能。失敗。邪魔。恥。
けれど今、別の声がそこに割って入った。
『できたかどうかは、俺が決める』
荒っぽくて、優しくはない。けれど、その声は私を踏みつけなかった。
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは俺のほうだ」
信じられない言葉だった。
顔を上げると、朔夜さまはすでに視線を逸らしていた。まるで言い過ぎたとでもいうように、香炉の煙を見ている。
その横顔に、月明かりが薄く落ちていた。強い人の横顔。孤独な人の横顔。
私はその時初めて、朔夜さまを恐ろしい噂の武将としてではなく、一人の人として見たのかもしれない。
離れを出る前に、私は香炉の火を少しだけ弱めた。白い煙が細くなり、苦い香が和らぐ。禍を隠す香は強すぎると、かえって流れを閉じ込める。そんな気がしたからだった。
「香をいじったのか」
朔夜さまが問う。
「強すぎると、息が詰まります。……たぶん」
「たぶん、か」
「はい」
朔夜さまは小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。けれど、確かめる前に彼は目を閉じた。
「戻って休め」
今度は拒むための言葉ではなかった。
私は頷き、障子を閉めた。
朔夜さまの肩が落ちた。
苦しげに歪んでいた眉間が、少しだけほどける。脈の飛びも、先ほどより間が空いた。私は濡れ布を替え、手首へ巻くように当てた。
「……何をした」
朔夜さまの声は掠れていた。
「わかりません」
正直に答えると、朔夜さまは目を細めた。
「わからぬことをしたのか」
「はい。申し訳ありません」
「謝るところではない」
そう言われ、私は戸惑った。
怒られると思った。余計なことをするな、無能のくせに、と。けれど朔夜さまは、ただ私の指先を見た。
「痛むか」
言われて初めて、自分の指が小刻みに震えていることに気づいた。爪の下に黒い点のようなものが浮かび、すぐに消えた。
「少し、冷たいだけです」
朔夜さまは水差しを取ろうとした。けれど体がまだつらいのか、動きが鈍い。私は先に湯呑みを差し出した。
「水を」
彼は受け取り、一口飲んだ。喉が動く。その仕草を見ていると、さっきまで遠い英雄だった人が、急に生身の人に見えた。
痛みを堪え、水を飲み、息を整える人。
私は目を伏せた。
「勝手に見てしまって、本当に申し訳ありません」
「忘れろ」
朔夜さまは言った。
「今見たものは、誰にも言うな」
「はい」
「屋敷の者にもだ」
「はい」
「お前も、近づくな」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
けれど次の瞬間、朔夜さまは低く付け加えた。
「……今夜は助かった」
私は顔を上げた。
灯火が揺れている。朔夜さまの顔はまだ青ざめていたが、先ほどの苦痛は少し薄れていた。黒い流れは残っている。けれど暴れるような動きではなく、深い川の底をゆっくり進む影のようになっていた。
助かった。
その言葉が、体の奥に落ちた。
私が誰かの役に立ったのだと、信じてもよいのだろうか。無能と呼ばれ、家の恥と言われ、何をしても千景の邪魔だと責められてきた私が。
「私は……何も、ちゃんとはできていません」
「できたかどうかは、俺が決める」
門前で聞いた言葉に似ていた。
『よいかどうかは、俺が決める』
私の中でずっと、父や継母や千景や誠一郎さまの声が、私の価値を決めていた。無能。失敗。邪魔。恥。
けれど今、別の声がそこに割って入った。
『できたかどうかは、俺が決める』
荒っぽくて、優しくはない。けれど、その声は私を踏みつけなかった。
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは俺のほうだ」
信じられない言葉だった。
顔を上げると、朔夜さまはすでに視線を逸らしていた。まるで言い過ぎたとでもいうように、香炉の煙を見ている。
その横顔に、月明かりが薄く落ちていた。強い人の横顔。孤独な人の横顔。
私はその時初めて、朔夜さまを恐ろしい噂の武将としてではなく、一人の人として見たのかもしれない。
離れを出る前に、私は香炉の火を少しだけ弱めた。白い煙が細くなり、苦い香が和らぐ。禍を隠す香は強すぎると、かえって流れを閉じ込める。そんな気がしたからだった。
「香をいじったのか」
朔夜さまが問う。
「強すぎると、息が詰まります。……たぶん」
「たぶん、か」
「はい」
朔夜さまは小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。けれど、確かめる前に彼は目を閉じた。
「戻って休め」
今度は拒むための言葉ではなかった。
私は頷き、障子を閉めた。



