朔夜さまの瞳が、わずかに揺れた。
私は障子を少し開け、部屋へ入った。香炉の煙が頬に触れる。苦い香の向こうに、禍の甘い焦げ香が絡んでいて、吐き気に似たものが込み上げた。けれど、私は膝をついたまま、少しずつ近づいた。
朔夜さまは動かない。
近くで見ると、黒い流れは本当に恐ろしかった。生き物のように蠢き、時おり棘のように尖る。胸元から肩へ、肩から腕へ。けれど、一番苦しげなのは、鎖骨の下あたりだった。そこに黒が渦を巻き、息のたびに締まっている。
私は手を伸ばしかけ、止めた。
「触れても、よろしいですか」
「……禍が移るぞ」
「さっきも、少し触れました」
「さっきとは違う」
朔夜さまの声が低くなる。
「これは、斬った妖の残りだ。人の妬み、恨み、怖れ。そういうものを喰って濃くなる。触れれば、お前の弱いところに入る」
弱いところ。
私の中には、いくらでもある。
父に見捨てられた悲しみ。千景への嫉み。誠一郎さまに信じてもらえなかった悔しさ。無能と言われ続けた痛み。禍がそれを喰うのなら、私は格好の餌なのかもしれない。
指先が震えた。
朔夜さまはそれを見て、静かに言った。
「怖いなら戻れ」
私は首を横に振った。
「怖いです」
嘘はつけなかった。
「けれど、見なかったことにはできません」
部屋の隅に置かれた水差しが目に入った。そばには清潔な布もある。私は膝を進め、水差しの水を湯呑みに少し移した。夜気で冷えている。香炉の横には、香を扱うための小さな火箸と灰があった。
私は布を水で湿らせ、固く絞った。
薬も丸薬も足りない。煎じる鍋もない。今できるのは、熱を取ることと、脈を見ることくらい。
「腕を」
朔夜さまは何も言わなかった。
拒まれなかったので、私はそっと彼の手首に布を当てた。皮膚は熱かった。湯に浸けた石のように、内側から熱を吐いている。けれど指先は冷たい。脈は強く、速く、乱れていた。その脈の合間を、黒い流れが横切るたび、鼓動が一つ欠ける。
「……脈が、飛んでいます」
「わかるのか」
「少しだけ」
私は布で汗を拭った。額、こめかみ、首筋。触れるたび、黒い流れがこちらを向く。蛇のように。私は息を止めそうになり、慌ててゆっくり吸った。
薬師は、相手の息にのまれてはいけない。
母が教えてくれたことだ。
「息を、私に合わせてください」
「命じる気か」
声は苦しげなのに、少しだけ鋭い。
私ははっとして首を振る。
「いえ、あの……お願いです。吸って、吐いて。ゆっくり」
朔夜さまはしばらく私を見ていた。
やがて、短く息を吐いた。
私は自分も息を吸った。春の夜気、香炉の苦い香、甘い焦げ香。怖い匂いばかりの中で、湿らせた布の清い水の匂いだけが細く残っている。
「吸って……吐いて」
黒い流れはすぐには従わない。朔夜さまの胸の中で渦を巻き、暴れ、私の指先を冷やした。
私は脈の上に指を置いたまま、流れの絡まるところを探した。見えるというより、感じる。黒い川の中で、石に引っかかった藻のように、流れが滞る場所。
「ここ……」
鎖骨の下へ手を伸ばすのはためらわれた。けれど朔夜さまは何も言わない。私は布越しに、そこへそっと触れた。
瞬間、指先に冷たい痛みが走った。
黒いものが、私の爪の下へ入り込もうとした。耳元で、誰かの声がした気がする。
——無能。
——役立たず。
——姉なら退きなさい。
私は唇を噛んだ。
それは継母の声であり、千景の声であり、私自身の奥に沈めてきた声だった。禍は、本当に弱いところを知っている。
でもその時、朔夜さまの手が私の手首を掴んだ。
「離せ」
命令ではなく、焦りだった。
私は首を振った。
「もう少しだけ」
「小夜」
初めて、名前を呼ばれた。
その一音が、黒い声を断ち切るように届いた。
私は息を吸った。ゆっくり。さっき自分が朔夜さまに言った通りに。
「……大丈夫です」
大丈夫ではなかった。怖くて、指先が凍りそうだった。
でも、私の名前を呼ぶ声が、私をここに留めてくれた。
布越しに触れた黒い流れを、私は無理に消そうとはしなかった。ただ、絡まった糸をほぐす時のように、少し隙間を探した。
ここを押さえれば、流れが止まる。
でも、こちらへ逃がせば私が呑まれる。
ならば、ほんの少しだけ、道を作る。
「吸って……吐いてください」
朔夜さまの呼吸が、少しずつ私に合う。
黒い渦の端が、ほどけた。
私は障子を少し開け、部屋へ入った。香炉の煙が頬に触れる。苦い香の向こうに、禍の甘い焦げ香が絡んでいて、吐き気に似たものが込み上げた。けれど、私は膝をついたまま、少しずつ近づいた。
朔夜さまは動かない。
近くで見ると、黒い流れは本当に恐ろしかった。生き物のように蠢き、時おり棘のように尖る。胸元から肩へ、肩から腕へ。けれど、一番苦しげなのは、鎖骨の下あたりだった。そこに黒が渦を巻き、息のたびに締まっている。
私は手を伸ばしかけ、止めた。
「触れても、よろしいですか」
「……禍が移るぞ」
「さっきも、少し触れました」
「さっきとは違う」
朔夜さまの声が低くなる。
「これは、斬った妖の残りだ。人の妬み、恨み、怖れ。そういうものを喰って濃くなる。触れれば、お前の弱いところに入る」
弱いところ。
私の中には、いくらでもある。
父に見捨てられた悲しみ。千景への嫉み。誠一郎さまに信じてもらえなかった悔しさ。無能と言われ続けた痛み。禍がそれを喰うのなら、私は格好の餌なのかもしれない。
指先が震えた。
朔夜さまはそれを見て、静かに言った。
「怖いなら戻れ」
私は首を横に振った。
「怖いです」
嘘はつけなかった。
「けれど、見なかったことにはできません」
部屋の隅に置かれた水差しが目に入った。そばには清潔な布もある。私は膝を進め、水差しの水を湯呑みに少し移した。夜気で冷えている。香炉の横には、香を扱うための小さな火箸と灰があった。
私は布を水で湿らせ、固く絞った。
薬も丸薬も足りない。煎じる鍋もない。今できるのは、熱を取ることと、脈を見ることくらい。
「腕を」
朔夜さまは何も言わなかった。
拒まれなかったので、私はそっと彼の手首に布を当てた。皮膚は熱かった。湯に浸けた石のように、内側から熱を吐いている。けれど指先は冷たい。脈は強く、速く、乱れていた。その脈の合間を、黒い流れが横切るたび、鼓動が一つ欠ける。
「……脈が、飛んでいます」
「わかるのか」
「少しだけ」
私は布で汗を拭った。額、こめかみ、首筋。触れるたび、黒い流れがこちらを向く。蛇のように。私は息を止めそうになり、慌ててゆっくり吸った。
薬師は、相手の息にのまれてはいけない。
母が教えてくれたことだ。
「息を、私に合わせてください」
「命じる気か」
声は苦しげなのに、少しだけ鋭い。
私ははっとして首を振る。
「いえ、あの……お願いです。吸って、吐いて。ゆっくり」
朔夜さまはしばらく私を見ていた。
やがて、短く息を吐いた。
私は自分も息を吸った。春の夜気、香炉の苦い香、甘い焦げ香。怖い匂いばかりの中で、湿らせた布の清い水の匂いだけが細く残っている。
「吸って……吐いて」
黒い流れはすぐには従わない。朔夜さまの胸の中で渦を巻き、暴れ、私の指先を冷やした。
私は脈の上に指を置いたまま、流れの絡まるところを探した。見えるというより、感じる。黒い川の中で、石に引っかかった藻のように、流れが滞る場所。
「ここ……」
鎖骨の下へ手を伸ばすのはためらわれた。けれど朔夜さまは何も言わない。私は布越しに、そこへそっと触れた。
瞬間、指先に冷たい痛みが走った。
黒いものが、私の爪の下へ入り込もうとした。耳元で、誰かの声がした気がする。
——無能。
——役立たず。
——姉なら退きなさい。
私は唇を噛んだ。
それは継母の声であり、千景の声であり、私自身の奥に沈めてきた声だった。禍は、本当に弱いところを知っている。
でもその時、朔夜さまの手が私の手首を掴んだ。
「離せ」
命令ではなく、焦りだった。
私は首を振った。
「もう少しだけ」
「小夜」
初めて、名前を呼ばれた。
その一音が、黒い声を断ち切るように届いた。
私は息を吸った。ゆっくり。さっき自分が朔夜さまに言った通りに。
「……大丈夫です」
大丈夫ではなかった。怖くて、指先が凍りそうだった。
でも、私の名前を呼ぶ声が、私をここに留めてくれた。
布越しに触れた黒い流れを、私は無理に消そうとはしなかった。ただ、絡まった糸をほぐす時のように、少し隙間を探した。
ここを押さえれば、流れが止まる。
でも、こちらへ逃がせば私が呑まれる。
ならば、ほんの少しだけ、道を作る。
「吸って……吐いてください」
朔夜さまの呼吸が、少しずつ私に合う。
黒い渦の端が、ほどけた。



