気づけば、縁側の板が鳴っていた。
朔夜さまの目が、鋭くこちらを射抜いた。
「誰だ」
私は身をすくめた。
「……小夜です」
しばらく、灯火の揺れる音だけがした。
「戻れ」
短い命令だった。
「ですが」
「見るな」
その声には、門前で皆を黙らせた時とは違う響きがあった。怒りではない。拒絶でもない。もっと深く、暗いところから出てくる声。
見られたくないのだ。
私は障子の外で膝をつき、両手をついた。
「申し訳ありません。勝手に歩きました」
「謝るなら戻れ」
「戻ります。……けれど、その前に」
黒い流れが、また朔夜さまの首筋へ上がった。彼の指が床を掴み、爪が白くなる。
私は、恐る恐る顔を上げた。
「痛いのでは、ありませんか」
朔夜さまが笑ったように見えた。笑みというより、刃の欠けた音のようなものだった。
「痛まぬ禍などない」
「毎晩、こうして?」
答えはない。
けれど、その沈黙が答えだった。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
この屋敷の柱に残る黒い澱み。鎧にまとわりつく靄。庭石に沈む夜。それは、朔夜さまが持ち帰ったものなのだ。妖を斬り、人を救い、その代わりに体へ引き受け、夜になると一人で耐える。誰にも見せず、誰にも助けを求めず。
強い人とは、傷つかない人のことだと思っていた。
でも違う。
朔夜さまは、傷ついても倒れない人なのだ。倒れないから、皆が傷を見ないだけなのだ。
「……少しだけ、近づいてもよろしいですか」
「お前にできることはない」
「はい。たぶん、できません」
認めると、喉が苦くなった。
私はまだ、何も知らない。母の丸薬の意味も、黒い糸の正体も、朔夜さまの禍をどうすればよいのかも。さっき男を助けられたのは、きっと偶然に近い。自分で自分の力を信じられない。
それでも。
「でも、一人で苦しんでいる人を、そのままにはできません」
朔夜さまの目が、鋭くこちらを射抜いた。
「誰だ」
私は身をすくめた。
「……小夜です」
しばらく、灯火の揺れる音だけがした。
「戻れ」
短い命令だった。
「ですが」
「見るな」
その声には、門前で皆を黙らせた時とは違う響きがあった。怒りではない。拒絶でもない。もっと深く、暗いところから出てくる声。
見られたくないのだ。
私は障子の外で膝をつき、両手をついた。
「申し訳ありません。勝手に歩きました」
「謝るなら戻れ」
「戻ります。……けれど、その前に」
黒い流れが、また朔夜さまの首筋へ上がった。彼の指が床を掴み、爪が白くなる。
私は、恐る恐る顔を上げた。
「痛いのでは、ありませんか」
朔夜さまが笑ったように見えた。笑みというより、刃の欠けた音のようなものだった。
「痛まぬ禍などない」
「毎晩、こうして?」
答えはない。
けれど、その沈黙が答えだった。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
この屋敷の柱に残る黒い澱み。鎧にまとわりつく靄。庭石に沈む夜。それは、朔夜さまが持ち帰ったものなのだ。妖を斬り、人を救い、その代わりに体へ引き受け、夜になると一人で耐える。誰にも見せず、誰にも助けを求めず。
強い人とは、傷つかない人のことだと思っていた。
でも違う。
朔夜さまは、傷ついても倒れない人なのだ。倒れないから、皆が傷を見ないだけなのだ。
「……少しだけ、近づいてもよろしいですか」
「お前にできることはない」
「はい。たぶん、できません」
認めると、喉が苦くなった。
私はまだ、何も知らない。母の丸薬の意味も、黒い糸の正体も、朔夜さまの禍をどうすればよいのかも。さっき男を助けられたのは、きっと偶然に近い。自分で自分の力を信じられない。
それでも。
「でも、一人で苦しんでいる人を、そのままにはできません」



