無能薬師の娘、最強武将の花嫁候補になります

その時、低い呻き声が聞こえた。

私は凍りついた。

声は庭のさらに奥、離れの方からだった。

明かりはほとんどない。ただ、薄く開いた障子の隙間から、灯火が揺れている。そこへ近づくほど、甘い焦げ香が濃くなった。朝霧堂の薬に紛れていた匂いより、もっと重い。蜜を煮詰め、炭に落とし、血で湿らせたような匂い。

胸が苦しくなる。

私は離れの縁側の陰に身を寄せ、そっと中を覗いた。

朔夜さまがいた。

鎧は脱いでいた。黒い着物の襟元を乱し、片膝をついて、片手で床を掴んでいる。もう片方の腕には、昼に見た黒い筋が幾重にも走っていた。腕だけではない。首筋、肩、胸元。皮膚の下を、黒い流れがうねっている。

まるで毒を含んだ川が、体の中で出口を探して暴れているようだった。

「……っ」

朔夜さまの喉から、押し殺した息が漏れた。

その額には汗が浮かび、灯火に照らされて鈍く光っている。唇の色が悪い。それでも声を上げない。誰も呼ばない。歯を食いしばり、一人で耐えている。

部屋の隅には香炉があった。

香木が焚かれているのだろう。白い煙が細く立ちのぼり、苦みのある香が漂っていた。禍の匂いを抑えるためなのか、あるいは痛みを紛らわせるためなのか。けれど私にはわかった。香の白さの下で、黒い流れは少しも消えていない。

むしろ押し込められ、行き場をなくして、朔夜さまの内側をさらに荒らしている。

見てはいけない。

そう思った。

これは朔夜さまが人に見せないようにしているものだ。屋敷の皆も、きっと知らない。知っていても、近づかない。最強の武将。妖を斬る人。誰もが畏れ、頼る人。その人が床に膝をつき、息を殺して苦しんでいる姿など、見てよいはずがない。

でも、足が動かなかった。

黒い流れが、彼の胸のあたりで絡まっている。脈の上に重く乗り、息の道を塞ごうとしている。私は薬師の娘だ。無能と言われ続けたけれど、苦しむ人を見て背を向けることだけは、どうしてもできない。