ざまあをください

プールサイドに両膝をついた。
ほっと息をついていると、色白でやたらと垂れた目をした男の顔が迫ってくる。

厳巳(いずみ)!! しっかりしろ!!!」

近っ。うるさっ。汚っ。
唾メッチャ飛んでくるんですけど。

「おい、何だそのツラ」
「とても不快なので、離れてもらってもいいですか?」
「~~、テメエ……っ」

ブチギレる――かと思ったら、溜息をついた。
深く、それはもう深く。

「あぁ……っ、くそ……っ」

顔を俯かせて、乱暴に目を擦っている。
まさか……泣いてるの?

僕の頬が強張っていく。
キモいだとか、自分に酔い過ぎだとか、そんなふうに思いっきり蔑んでやりたいのに、どうにも上手くいかない。
おまけに、何だか物凄く居心地が悪い。そのせいで――。

「ジャージ……びしょ濡れですね」

何てしょーもないことを言ってしまう。
もうヤダ。帰りたい。

「誰のせいだ」
「……僕のせい」
「そーだ、このバカ」

今度は乱暴に頭を撫でてきた。
不愉快。なのに拒めない。
遠回しに褒められているような……そんな気がして。

的場(まとば)君、これを」
「すみませんっす、鴫野(しぎの)さん」

コーチはおじいちゃんトレーナーの鴫野さんからバスタオルを受け取ると、そっと僕の肩にかけた。
ナニソレ。ますます調子が狂う。
早くいつもの調子に、何でもいいから一発怒鳴ってくれないかな。

「立てるか?」
「いえ。立てそうにないので、取材はなしに――」
「問題なさそうだな。行け」
「……サイアク」

コーチに支えられながら立ち上がる。
意外と大丈夫だった。
たぶん、軽い酸欠だったんだろう。

「予定よりも早めに返してやっから、くれぐれも無断で帰ったりするんじゃねえぞ」
「はいはい」
「それと、戻り次第永良(ながら)のところに行け。後でお前のスマホに、ヤツの新しい所属先の情報を送っておくから」
「? クラブ、変えたんですか?」
「別の競技に転向したんだ。永良はもう競泳には戻らねえ」
「何それ……」

聞いてない、と言いかけてはっとする。
永良は『じゃ、もう正式に『ざまあ』はいらねえってことでいいな?』と、やたらと念押しをしてきていた。
まさか、あの時にはもう……?

「今年の全日本の頃には、もう既に転向の意思があったのでしょうか?」
「いや。正式に決まったのは、全日本の後……三月の終わりごろだったはずだ」

主人公役をおりたから転向を決めた、と見て間違いなさそうだ。
転向自体は……寂しいけど、まぁ構わない。
問題なのは報告がなかったことだ。

僕は永良の連絡先も知らなければ、進学先の高校も知らない(何度も聞いたけど、『絶交カード』を切られて結局聞き出せなかった)。

永良の幼馴染である我喜屋(がきや)君も、高校進学を機に競泳を引退。
今ではもう接点がなくなってしまって、頼ることが出来ない。

コーチの協力がなければ、僕は間違いなく永良の消息を掴めなくなっていただろう。
……いや、違う。これはミスなんかじゃない。狙い通りなのか。

そうやってドロンして、約束をなかったことにした。
僕の親友になる気なんてさらさらなかったんだね。

「こんな『ざまあ』頼んでないんだけど」
「アホ。なに不貞腐れてんだ。永良はお前のために、一年も削って――」
「取材、受けてきます」

コーチの胸にバスタオルを押し付けて、すたすたと歩き出す。
すると「(ごう)や」と呼び止められる。鴫野さんだ。
僕は素直に従って、すっと振り返る。

「あの子は辛そうな顔をしておったぞ」
「……永良が?」
「うむ。何か訳があるような、そんな気がしたの」
「…………」
「怒るのも結構じゃが、ここは一つ冷静になって、あの子の話に耳を傾けてみてはどうじゃ?」

鴫野さんはそう言って、しわしわの顔を一層しわくちゃにして微笑んだ。
僕のビキビキだった心が、ほろほろになっていく。
ああ、何だか泣きそうだ。

「変わらず、あの子と仲良くなりたいんじゃろ?」

ほろほろになった僕は、素直にこくりと頷いた。
悔しいけど鴫野さんの言う通りだ。
僕はやっぱり永良がいい。
大学生になっても、社会人になっても、ずっとずっと永良といたい。
君の隣はほんとうに……これ以上ないぐらい居心地がいいから。

「ありがとうございます、鴫野さん。永良とちゃんと話してみようと思います」
「ほっほっほ! 何の何の♪」
「……俺には礼もなしかよ」
「むくれるな、むくれるな」

きゃっきゃっするコーチと鴫野さんを背に、取材ブースに向かう。
務めを果たしたら即日本に戻る。

全部、全部ちゃんと聞いてあげる。
だから、ちゃんと話してよね、永良。