ざまあをください

半年後の八月。僕は五輪の舞台に立っていた。
開催地はイギリス・ロンドン。

永良(ながら)はついてきていない。
彼はテレビの前で応援してくれている。
こっちが夜の7時だから、向こうは朝の10時ぐらいかな。

客席はとても楽しげだ。
色んな国の人達の笑い声や、アップテンポな洋楽が響き渡っている。
対照的に、僕がいるバックヤードはとてもピリピリとしていた。
私語は勿論、笑顔すらNGって感じ。

大会の表裏なんて大体こんな感じだけど、今日はいつにも増して差が激しいような気がする。五輪だからかな。
まぁ、別にどうでもいいけど。

「Ladies and gentlemen, please welcome the finalists for the Men's 200m Breaststroke!
(皆様、男子200メートル平泳ぎ、ファイナリストの入場です!)」

第一レーンの選手から順番に入場していく。
僕の隣のレーンのアメリカ人選手が出て行った。次は僕だ。
ポケットから手を出して、小さく息をつく。

「Lane 4... Japan... IZUMI Go!!」
(第4レーン、日本、厳巳(いずみ) (ごう)!!)

ゲートを通って中央へ。
僕の後ろにある大型モニターには、日の丸、富士山、桜が表示されていた。
会釈をして顔を上げる。

永良からは『笑えよ』って言われてたけど、結局応えることは出来なかった。
僕はまだ君の前でしか笑えないらしい。

「Lane 4, IZUMI. Please follow me.
(4レーン、厳巳。私についてきてください)」

案内役に従って指定のレーンへ。
そこで赤と黒の選手団ジャージを脱いで、水着姿になった。
身に着けているのは、馴染みのハーフスパッツタイプの水着だ。
大人の事情でロゴは隠して、日本の国旗を入れている。

「……報酬は君の友情(仮)」

静かに気合を入れてゴーグルをかけた。
足元にいるカメラさんに抜かれちゃったけど、むしろラッキーってことにしておく。
だって、もしかしたら君に届くかもしれないから。

透明な青の中を歩いて、飛び込み台に片足を乗せる。
ホイッスルが鳴り響く。
一回、二回、三回………五回目で台の上へ。
後ろに控えていた審判員が、僕の背後に立つ。

『Take your marks』

合図を受けて飛び込んだ。
水泡の雲を抜けて、前へ前へ。
いつもの調子だ。いける。

周囲がどんどん静かになっていく。
遂には波が消えた。
僕の横にはもう誰もいない。

ちょっと前までは、この孤独で退屈な世界が大嫌いだった。
だけど、今は違う。この先には永良がいるから。

『厳巳!』

永良のはにかむ姿が目に浮かぶ。
一緒に並んで歩いて、たくさん色んなところに行って……。

妄想が……いや、夢が力に変わる。
体はもっと軽く、スピードはどんどん増していって。

「……っ、……!!!!」

ゴールだ。腕を伸ばしてタッチ板を叩く。

「はぁっ!!! はぁっ!! ……んっ……」

顔を勢いよく上げて、電光掲示板に目を向ける。

RANK:1
LANE:4
NAME:IZUMI, G.
TIME:2:03.54(WR)

「よかった……」

どっと力が抜けて肩まで水に浸かった。
言うまでもなくほっとしたんだろう。

平泳ぎ200メートルの世界新は2分5秒48だった。
それに対して、今回僕が叩き出した記録が2分3秒54だ。
これなら永良も文句はないだろう。

「はぁ……はぁ……っ」

歓声が鳴り止まない。
日本語だけじゃない。英語、フランス語、イタリア語、その他色んな国の言葉が飛び交っている。
物凄く大きな音のはずなのに、何だか小さいというか……遠くに感じて。

「くっ……」

僕は堪らず、プールの壁に額を預けた。
くたくただ。力が入らない。
早く上がって、永良に報告したいのに。

「Hey, you alright?
(おい、大丈夫か?)」
「Hey! Get a doc over here! Now!
(おい! ドクターをこっちに! 早く!)」

両サイドの選手が気遣ってくれる。
僕は拙い英語で大丈夫だって伝えるけど、彼らは変わらず心配そうな顔をしてて。

「I'm his coach!
(俺はコイツのコーチだ!)」

的場コーチか。
相変わらず『ざまあチャンス』に貪欲ですね。
そんなに現役時代の恨みを晴らしたいですか、人気上げしてちやほやされたいですか。

「Oh! You're the one!
(おお! あんたがコーチか!)」
「Alright! Let's get him up!
(よしきた! 持ち上げるぞ!)」

「……アップ? うわっ……!」

次の瞬間、ぐっと強い力で押し上げられた。
かと思ったら、ガシっと勢いよく拘束される。コーチだ。
僕よりも一回り以上小さいはずなのに、しっかりと抱き留めてくれていた。