いつの間にか使者はどこかに行ったみたいで、
「………急に悪かった。」
「いえ…大丈夫です。」
彼は私を抱きしめる手を緩め、離した。
あの温もりが離れて、少し心が寂しくなる。
今日は彼とは会えないのか…と思えば心が軋む音が聞こえた。
「では…私はこれで…。」
その場を離れようとする。
「待て。……その、たまには一緒に茶を飲まないか?」
驚いて振り返れば、
「嫌なら別に構わない。」
フリーズした私を見て嫌がっていると勘違いしていたのか彼はそう言った。
「いえっ…。ご一緒させていただきますっ…。」
「そうか、我についてこい。茶を楽しむにピッタリな場所がある。」
彼は私の手を優しく取り、その場所に案内してくれた。
そこは、後宮の蓮が咲き乱れる池に浮かぶ東屋だった。
「座れ。茶は我が淹れよう。」
「そんな、陛下にお茶を淹れさせるなんて…。」
「我がしたいからだ。ここは甘えろ。」
「は、はい…。」
大人しく座る。
彼のお茶を淹れる所作は丁寧ですぐに上品な茶葉の香りがする。
というより、本当に甘えちゃっていいのかな?
天下の皇帝陛下にお茶を淹れさせるなんて…。
「飲むといい。茶を淹れるのは久しいから美味いか分からないが…。」
コトリ…と目の前に置かれたお茶を手に取り、
「いえっ、いただきます。」
一口飲めば口の中で甘みと苦みが両方広がり、まるで生まれたての緑がふぶいているみたい。
「美味しいです!」
「そうか、口に合ったようで何よりだ。」
彼も続けて飲み、満足気な笑みを浮かべていた。
「それで、あの使者となんの世間話をしていた?というより、最近ほとんど一緒にいないか?」
「天気の話や庭園に咲いている話などです。」
「そうか、なんだか妬けるな。」
「えっ?」
私と使者が話していたら彼はどうして妬けるの?
「皇后は我の妻であるのに、夫である我よりあの使者と話す時間が多いだろう?」
……それは、私の正体に気づいているからだと思います。
なんて言えない。
湯呑を持つ手が強張る。
そんなことを言ってしまえば、彼に全部を言わないといけなくなる。
「……それは、陛下が日々お忙しいだろうと思い、邪魔してはいけないだろうと思いまして…。」
思わず俯く。
「そんなことはない。これから散歩に行くときは事前に我に伝えろ。我も行く。」
「……邪魔ではないのですか?」
予想外の提案に驚いて、俯いていた顔が思わず上がり、彼の方を見る。
「そんなことはないと言ったであろう。そもそも、妻に散歩に誘われて喜ばぬ夫などおらぬ。」
「そうなのですか?」
「あぁ、というより、嫉妬で政務に集中出来ぬ。」
その言葉にドキッとする。
「な、なんだか今日は陛下は雰囲気が甘いですね。」
な、なんで私はこんなことを言ってしまったんだろう。
可愛くなくて、愛想が無い。
後悔誤魔化すように湯呑にまだ残るお茶を飲む。
「それは皇后が思っているだけでは伝わらないと言ったからだろう?思ったままを言っただけだ。」
その言葉はあの時の…。
「っ…。覚えていらしゃったのですね…。」
「あぁ。皇后のことなら全部覚えているぞ。」
そう言うと、意地悪な笑みを浮かべてこちらに少し身を寄せてきた。
「そう言えば、皇后…和心にまだ名前を呼ばれたことはないな。」
「名前、ですか?」
「あぁ、我は和心と二人きりの時は呼んでいる。だが、和心の口からはまだ我の名を聞いたことが無いな。」
た、確かに…。
だけど、少し緊張する…。
名前を呼ぶだけなのに、私みたいなのが現人神の彼の名前を易々と口に出して呼んでいいのか…。
躊躇ってしまう。
そんな私に彼は、
「別に今じゃなくて良い。和心が呼びたいときに呼べ。」
遠慮してくれた。
あぁ、私。
この人が好きなんだ。
彼はどんな人でも従えさせることが一言で出来るのに、私にはしない。
それは多分、彼が私を大切にしているからだろう。
自惚れでもいい。
都合のいい解釈でもいい。
だけど、彼が名前を呼んで欲しいって命令という方法じゃなくてお願いをしたのは事実だ。
なら、私は応えなきゃ。
ううん、応えたい。
「嫌じゃないです…。」
「和心?別に無理なんてしなくていいんだぞ?」
「いえ、言わせてください。」
喉が渇くけど、手に持っているお茶は飲まず、
「承曜…様…。」
掠れた声が出て、恥ずかしい。
もっと可愛く呼べたらいいのに…。
恥ずかしくて俯く。
「……。」
「……。」
沈黙が続いて、聞こえるのは鳥のさえずりと風が吹く音だけ。
お願いだからなんか言って…。
恥ずかしさで耐えられないよ…。
一秒が十秒に感じる…。
そんなときに、
「もう一回…。」
「え?」
「もう一回呼んでくれぬか?夢みたいで現実の区別がつかないのだ。」
彼らしくない言葉に笑みが零れる。
「ふふっ。なんですか、それ。」
「笑うな。我とて人なのだ。唯一、和心といるときだけが我を現人神や皇帝という立場から解放させ、我でいさせてくれる。」
「ふふっ。普通の人であっても、そのような言葉は言いませんよ。」
むっ…とした表情になる彼に、更に笑ってしまう。
ああ、そうだ。
私も彼も同じく人間で世界でただ一人の存在なんだ。
罪人の私と現人神の彼。
対であれど本質は同じく人なんだ。
お腹は空くし、面白いことがあれば笑う、眠たいときは寝たり…時間を共にしたり…。
こんな当然なことが出来るのかな?
いつかできたらいいな。
「そう言えば、市民の夫婦は様をつけないらしい。和心も様をつけずに呼んだらどうだ?」
「え?」
急に難易度が上がった…。
彼に様をつけづに呼ぶなんて…恐れ多い。
チラッと伏せていた目を上げれば、どこか期待している彼がいた。
その様子がなんだかしっぽを振る大型犬みたいで愛らしく思えた。
「承曜…。」
承曜…その意味は光を受け継ぐ人という意味があるらしい。
彼にピッタリな名前だ。
「もっと。」
「承曜…。」
「もっとだ。」
「承曜。」
「もっと。」
「どんだけ言わせたいのですか?」
「ずっとに決まっているだろう?」
「もう…。」
「二人きりじゃないときも呼び捨てで我の名前を呼ぶように。特に、あの使者の前ではな。」
「ふふっ。承知しました。」
しばらく小さな東屋に二人の笑い声が響く。
私達の間を穏やかな風が吹き抜けた。
「………急に悪かった。」
「いえ…大丈夫です。」
彼は私を抱きしめる手を緩め、離した。
あの温もりが離れて、少し心が寂しくなる。
今日は彼とは会えないのか…と思えば心が軋む音が聞こえた。
「では…私はこれで…。」
その場を離れようとする。
「待て。……その、たまには一緒に茶を飲まないか?」
驚いて振り返れば、
「嫌なら別に構わない。」
フリーズした私を見て嫌がっていると勘違いしていたのか彼はそう言った。
「いえっ…。ご一緒させていただきますっ…。」
「そうか、我についてこい。茶を楽しむにピッタリな場所がある。」
彼は私の手を優しく取り、その場所に案内してくれた。
そこは、後宮の蓮が咲き乱れる池に浮かぶ東屋だった。
「座れ。茶は我が淹れよう。」
「そんな、陛下にお茶を淹れさせるなんて…。」
「我がしたいからだ。ここは甘えろ。」
「は、はい…。」
大人しく座る。
彼のお茶を淹れる所作は丁寧ですぐに上品な茶葉の香りがする。
というより、本当に甘えちゃっていいのかな?
天下の皇帝陛下にお茶を淹れさせるなんて…。
「飲むといい。茶を淹れるのは久しいから美味いか分からないが…。」
コトリ…と目の前に置かれたお茶を手に取り、
「いえっ、いただきます。」
一口飲めば口の中で甘みと苦みが両方広がり、まるで生まれたての緑がふぶいているみたい。
「美味しいです!」
「そうか、口に合ったようで何よりだ。」
彼も続けて飲み、満足気な笑みを浮かべていた。
「それで、あの使者となんの世間話をしていた?というより、最近ほとんど一緒にいないか?」
「天気の話や庭園に咲いている話などです。」
「そうか、なんだか妬けるな。」
「えっ?」
私と使者が話していたら彼はどうして妬けるの?
「皇后は我の妻であるのに、夫である我よりあの使者と話す時間が多いだろう?」
……それは、私の正体に気づいているからだと思います。
なんて言えない。
湯呑を持つ手が強張る。
そんなことを言ってしまえば、彼に全部を言わないといけなくなる。
「……それは、陛下が日々お忙しいだろうと思い、邪魔してはいけないだろうと思いまして…。」
思わず俯く。
「そんなことはない。これから散歩に行くときは事前に我に伝えろ。我も行く。」
「……邪魔ではないのですか?」
予想外の提案に驚いて、俯いていた顔が思わず上がり、彼の方を見る。
「そんなことはないと言ったであろう。そもそも、妻に散歩に誘われて喜ばぬ夫などおらぬ。」
「そうなのですか?」
「あぁ、というより、嫉妬で政務に集中出来ぬ。」
その言葉にドキッとする。
「な、なんだか今日は陛下は雰囲気が甘いですね。」
な、なんで私はこんなことを言ってしまったんだろう。
可愛くなくて、愛想が無い。
後悔誤魔化すように湯呑にまだ残るお茶を飲む。
「それは皇后が思っているだけでは伝わらないと言ったからだろう?思ったままを言っただけだ。」
その言葉はあの時の…。
「っ…。覚えていらしゃったのですね…。」
「あぁ。皇后のことなら全部覚えているぞ。」
そう言うと、意地悪な笑みを浮かべてこちらに少し身を寄せてきた。
「そう言えば、皇后…和心にまだ名前を呼ばれたことはないな。」
「名前、ですか?」
「あぁ、我は和心と二人きりの時は呼んでいる。だが、和心の口からはまだ我の名を聞いたことが無いな。」
た、確かに…。
だけど、少し緊張する…。
名前を呼ぶだけなのに、私みたいなのが現人神の彼の名前を易々と口に出して呼んでいいのか…。
躊躇ってしまう。
そんな私に彼は、
「別に今じゃなくて良い。和心が呼びたいときに呼べ。」
遠慮してくれた。
あぁ、私。
この人が好きなんだ。
彼はどんな人でも従えさせることが一言で出来るのに、私にはしない。
それは多分、彼が私を大切にしているからだろう。
自惚れでもいい。
都合のいい解釈でもいい。
だけど、彼が名前を呼んで欲しいって命令という方法じゃなくてお願いをしたのは事実だ。
なら、私は応えなきゃ。
ううん、応えたい。
「嫌じゃないです…。」
「和心?別に無理なんてしなくていいんだぞ?」
「いえ、言わせてください。」
喉が渇くけど、手に持っているお茶は飲まず、
「承曜…様…。」
掠れた声が出て、恥ずかしい。
もっと可愛く呼べたらいいのに…。
恥ずかしくて俯く。
「……。」
「……。」
沈黙が続いて、聞こえるのは鳥のさえずりと風が吹く音だけ。
お願いだからなんか言って…。
恥ずかしさで耐えられないよ…。
一秒が十秒に感じる…。
そんなときに、
「もう一回…。」
「え?」
「もう一回呼んでくれぬか?夢みたいで現実の区別がつかないのだ。」
彼らしくない言葉に笑みが零れる。
「ふふっ。なんですか、それ。」
「笑うな。我とて人なのだ。唯一、和心といるときだけが我を現人神や皇帝という立場から解放させ、我でいさせてくれる。」
「ふふっ。普通の人であっても、そのような言葉は言いませんよ。」
むっ…とした表情になる彼に、更に笑ってしまう。
ああ、そうだ。
私も彼も同じく人間で世界でただ一人の存在なんだ。
罪人の私と現人神の彼。
対であれど本質は同じく人なんだ。
お腹は空くし、面白いことがあれば笑う、眠たいときは寝たり…時間を共にしたり…。
こんな当然なことが出来るのかな?
いつかできたらいいな。
「そう言えば、市民の夫婦は様をつけないらしい。和心も様をつけずに呼んだらどうだ?」
「え?」
急に難易度が上がった…。
彼に様をつけづに呼ぶなんて…恐れ多い。
チラッと伏せていた目を上げれば、どこか期待している彼がいた。
その様子がなんだかしっぽを振る大型犬みたいで愛らしく思えた。
「承曜…。」
承曜…その意味は光を受け継ぐ人という意味があるらしい。
彼にピッタリな名前だ。
「もっと。」
「承曜…。」
「もっとだ。」
「承曜。」
「もっと。」
「どんだけ言わせたいのですか?」
「ずっとに決まっているだろう?」
「もう…。」
「二人きりじゃないときも呼び捨てで我の名前を呼ぶように。特に、あの使者の前ではな。」
「ふふっ。承知しました。」
しばらく小さな東屋に二人の笑い声が響く。
私達の間を穏やかな風が吹き抜けた。
