目を覚ますと、天井に吊るされたミラーボールが視界に入った。
朝の薄い光を受けて、鈍く反射するそれが、ひどく鬱陶しく感じられる。
そうだ――と思い出す。
昨日からホテルで住み込みのアルバイトを始めたのだが、空き部屋がなく、今は使われていないカラオケルームを仮の住まいにあてがわれていたのだった。
現実味のない「自分の部屋」に、まだしっくりこない違和感を覚えながら、仕事着に着替える。
住み込みなので、徒歩一分で出勤する。
気持ちを切り替える間もなく、仕事が始まった。
朝のフロアでは、すでに朝食会場のスタッフが慌ただしく動いていた。
私はその中にいた支配人に近づき、声をかける。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
初めての職場に、思った以上に緊張していたらしい。
自分でもわかるほど、声が少し上ずっていた。
「おはようございます。朝食の時間まであまり余裕がないから、さっそくお願いするね」
支配人は手早くそう告げる。
「まずはお水を各テーブルに置いてきて。今朝のテーブル配置と人数は、そこに貼ってあるから、自分で確認してね」
それだけ言うと、支配人は足早にフロントへと戻っていった。
慣れない作業をこなしながら、出勤してくる人たちに次々と挨拶をしていく。
誰もがすでに忙しそうで、立ち止まって言葉を交わす余裕はなさそうだった。
次に何をすればいいのかわからず、近くにいた調理場のスタッフに声をかける。
だが、返事は返ってこない。
聞こえていないのか、それとも聞こえないふりをされたのか判断がつかず、私はその場で少し戸惑った。
代わりに、少し離れた場所から、低く通る声が飛んでくる。
「そいつ、人見知りやから。話しかけても無駄やで」
振り向くと、料理長らしき人物が腕を組んでこちらを見ていた。
「それに、ホールの仕事はホールの人に聞き」
そう言って、彼はそれ以上関わる気はないというように、再び調理場へと意識を戻した。
「すみません」
短くそう言って、私はホールへと出た。
すでに朝食の時間が始まっているらしく、客席には人の気配と食器の触れ合う音が満ちていた。
支配人を見つけて声をかけると、申し訳なさそうな表情で言われる。
朝食のピーク時に新人の面倒を見る余裕はない。
だから今日は、調理場で夜用の食器の枚数を確認してほしい――という指示だった。
私は再び調理場へ戻り、夜用の食器を探し始める。
けれど、当然ながら食器に「夜用」などと書いてあるはずもない。
棚を一つ一つ見回すうちに、次第に途方に暮れてきた。
そのとき、背後に人の気配を感じる。
「……ん」
振り向くと、先ほどの人見知りの調理人が、無言で棚の一角を指さしていた。
言葉はそれだけだったが、十分だった。
助かった――と胸の内で安堵し、お礼を言おうと振り返る。
だが、彼の姿はもう調理場にはなかった。
朝食の時間が終わり、ホールのスタッフが一か所に集められた。
働き始めてまだ数時間、簡単な打ち合わせに参加したあと、流れで自己紹介をすることになる。
「今日から夏休みの間だけお世話になります、山本です。初めてのアルバイトですが、精一杯頑張りますので、よろしくお願いします」
少し緊張しながら頭を下げると、すぐに声が返ってきた。
「お姉ちゃん、よろしくな」
にこやかな表情の中年の男性だった。
その軽い口調に、張り詰めていた肩の力が少し抜ける。
「分からないことがあったら、何でも聞いてね」
続いて、ホールリーダーの女性が柔らかく微笑みながら声をかけてくれた。
その一言に、胸の奥がほっと温かくなる。
「明日には、別のホテルからヘルプの人も来る予定だから」
支配人が全体を見渡して言う。
「みんなで協力して、乗り切りましょう」
それだけ告げると、支配人は事務所へと戻っていった。
翌日、ヘルプの人が何人か来ていた。
そのうちの一人は隣のカラオケルームに住むことになった。
ペットのハムスターも一緒に来ていた。
住み込みのバイトって、ペット可なんだと驚いた。
もう一人は今は使われていない、百畳の大広間に住むことになった。
この時、自分が女性でよかったと思った。
(たぶん、女性だから鍵のかかるカラオケルームだったんだろうな……)
あとで聞いた話だが、百畳の部屋へ通された新人はその日の夜、誰にも行き先を告げずに帰って行ったようであった。
朝から、朝食準備の慌ただしさが始まった。
私はテーブルクロスをかけ、カトラリーを並べる役を任される。
カトラリーを使う朝食など初めてで、少し戸惑った。
ヘルプで来ていた女性が、並べ方を丁寧に教えてくれる。
さすが応援に来ただけあって、動きに無駄がなく、仕事も完璧だった。
朝食の時間が始まると、私は調理場の端で、夜用の皿の準備を進めることになった。
そして、なぜか今日は――隣で人見知りの調理人が夜の仕込みをしていた。
「私、熊本っていうの。よろしくね、山本さん」
「はい」
芸能人みたいな風貌の彼女に見ほれる。
もはや彼女は、私の女神であると感じた。
「みんな忙しいから、今のうちにコーヒーメーカーの使い方とか覚えておこうか。後は、夜の食材の場所とか。色々覚えておいた方が、夜、動きやすいと思うから」
「ありがとうございます」
何も聞いてないのに率先して教えてくれるなんて、本当にいい人だと思った。
初めてのバイトで、分からないことが分からず、質問しようにもできないでいたからだ。
ホテルのアルバイトは、覚えることがとにかく多かった。
カトラリーの仕上げ拭きや、食後のホールの片づけ。
お客様と関わるようになると、配膳の際にはメニューの名称を覚え、食事の進み具合を見ながら下膳のタイミングを判断しなければならない。
気の抜ける時間は、まったくなかった。
自分が客として来ていた頃は、スタッフの気遣いなど、正直なところ考えたこともなかった。
だが、いざ自分がやってみると、それがいかに難しい仕事かがわかる。
クレーマーに当たったらどうしよう――。
そう思うと、怖くて仕方がなかった。
けれど、実際にクレーマーに当たることはなかった。
支配人や熊本さんが指示した席にしか、私は配膳に行かなかったからだ。
二人はいつも最初にホールへ出て、お客様を案内しながら対応していた。
そのときに、さりげなく客層を見極め、私には比較的安全なお客様だけを任せてくれていたのだ。
そのことに気づいたのは、何日も経ってからのことだった。
「熊本さんって、すごいですね!」
思わず、心から感じたままを口にしていた。
「そんなことないよ」
熊本さんは少し照れたように笑う。
その表情を見て、前から気になっていたことを聞いてみた。
「熊本さん、どうしてハムスターを連れてきたんですか?」
「ハムちゃん?」
一瞬きょとんとしたあと、すぐに顔がほころぶ。
「あとで見に来る? すっごい癒やしなんだよ」
「いいんですか? ありがとうございます。楽しみです!」
「いいよいいよ。休憩時間においで。触らせてあげる」
軽い調子のその一言が、胸の奥まであたたかく届いた。
やっぱり熊本さんは、本当に女神みたいな人だと思った。
「そうそう、あと、気づいてなさそうだから伝えておくけど、今いる私以外のヘルプは、みんな他のホテルの支配人だからね。覚えておいてね」
衝撃の事実に、声が出なかった。
皆さん、動きが凄いとは思っていたけれど、プロという言葉では収まらない人たちだった。
どおりで、誰も質問をせず、当たり前のようにスマートに動けるわけだ。
自分の能力が低すぎるのかと不安になっていたが、比べる対象を間違えていたのだと分かると、なぜか胸の奥が少し軽くなった。
できないのも無理はない。そう思えた。
慌ただしい朝食が終わると、朝のミーティングが始まった。
「今日から満室の日が続きます。皆さん、大変ですがよろしくお願いします」
支配人がそう告げると、別の支配人がすぐに続ける。
「大丈夫! 僕たちも手伝うから、何かあったらすぐ相談してね」
場の空気が、ふっと和らいだ。
なるほど。
夏休みはホテルの繁忙期なのか。
世の中の仕組みが、少しだけ分かった気がした。
ミーティングが終わると、支配人に呼び止められた。
名前を呼ばれたのは、熊本さんと私だけだった。
「実はね、客室清掃の人手が足りなくて。このあと、少し手伝ってもらえないかな?」
一瞬だけ迷う間があったが、熊本さんは当然のようにうなずいた。
「分かりました」
その様子に引っ張られるように、私も続けて返事をする。
「……分かりました」
「ありがとう。じゃあ、朝食後の十時から客室に向かって。もう作業している人がいるから、やり方はそこで聞いてくれるかな」
「はい」
短いやり取りを終え、私たちはその場を後にした。
――客室清掃。
正直、少しだけ楽しみにしていた。
誰かが泊まった後の部屋に入るなんて、まるで廃墟を探索するみたいで、何か特別なものが残っていそうな気がしたからだ。
そのワクワクが、完全に見当違いだったと知るのは、一時間後のことである。
朝食を済ませ、熊本さんと並んで清掃エリアへ向かう。
私に割り振られた作業は単純だった。
すべての部屋を回り、シーツ、タオル、パジャマを回収してリネン袋に分けて入れる。
その後、各部屋に掃除機をかける。
――単純、のはずだった。
シーツもパジャマもタオルも、部屋ごとに置き場所が違う。
ベッドの下、クローゼットの奥、椅子の背もたれ。
しかも、お客さんが来る十五時までに、すべてを終わらせなければならない。
ゆっくり探している余裕など、どこにもなかった。
部屋から部屋へ、走るように移動する。
腕はすぐに重くなり、息も上がった。
客室清掃は、想像していたよりもずっと、体力勝負だった。
十四時半を少し回った頃、廊下の向こうから声が飛んできた。
「あと三十分で十五時だけど、各部屋の掃除とセッティング、終わってる?」
「はーい……」
自分でも驚くほど、疲れのにじんだ返事だった。
客室清掃が、ここまで大変だなんて思ってもみなかった。
これまでホテルに泊まったとき、廊下で高齢の女性たちが黙々と掃除をしている姿を何度も見てきたけれど、あの人たちはきっと、アスリートだったのだろう。
そう考えながら、私は最後に清掃を終えた部屋の入口に、そのまま座り込んだ。
そのときだった。
人見知りの彼が、客室清掃には似つかわしくない白衣姿で、下駄の乾いた音を立てながら、いつの間にかそこに立っていた。
「何してんの?」
「見たら分かるじゃないですか。掃除です」
「でも、座ってるじゃん」
「今、終わったところなんです。少し休んでただけなので、もう戻ります」
「ふーん」
一瞬、間を置いて、今度は私が聞き返す。
「あなたこそ、どうしてここに?」
「朝、話してたじゃん。ハムスター見るって」
「……?」
「部屋に行ったら誰もいないから、探しに来た」
「え? あ、そうなんですか……」
この人と、そんな約束をしただろうか。
そう思ったけれど、余計なことは言わずに、私はそのまま立ち上がった。
清掃リーダーによる最終確認が終わり、私と熊本さんは部屋へ戻ることになった。
夜の勤務は十七時から。少し休もう、という話だった。
なぜか、人見知りの彼も一緒に参加していた。
けれど、誰も突っ込まない。
彼が人見知りだということは、もう周知の事実だったからだ。
熊本さんと並んで歩き出すと、彼は黙って後ろについてくる。
その距離感が妙に気になって、思わず口を開いた。
「……どうして、ついてくるんですか」
「俺の部屋、そこ」
そう言って、通路の向かい側の部屋を指さす。
ついてきていたわけではなかったのだ。
自分の勘違いが恥ずかしくなり、それ以上、何も言えなくなった。
その様子を見ていた熊本さんが、彼に声をかける。
「ハムスター、見てく?」
「ん」
「じゃあ、今連れてくるね。二人とも、ちょっと待ってて」
そう言って部屋に入っていく。
ほんの数秒のはずなのに、その間がやけに長く感じられた。
沈黙が落ち着かず、視線のやり場にも困る。
やがて熊本さんの部屋のドアが開き、手には小さなケージが抱えられていた。
近づかなくても分かった。
――かわいい。触りたい。
けれど、その願いは叶わなかった。
「じーじー」
初めて聞く、ハムスターの鳴き声だった。
「ごめんね。この子、今日は機嫌が悪いみたい」
熊本さんはそう言って、少し困ったように笑った。
二時間の休憩を終え、夜の勤務に向かう。
調理場に入ると、すでに皆が持ち場についていた。
「お疲れ様です」
声をかけてから、邪魔にならないよう隅へ回る。
今日のメインはミニしゃぶしゃぶだった。
黒い長皿に、小ぶりで洒落た小鉢を三つ並べる。
胡麻だれ、ポン酢、塩。
それぞれを注いでいく。
どれも、近所のスーパーではまず見かけない味と色をしている。
黙々と手を動かしていると、背後から声がした。
「じー、じー」
振り返ると、人見知りだと聞いていた男が、台車を押しながらこちらへ向かってきていた。
意味が分からなかった。
困って一歩、後ろへ下がる。
「じー、じー」
男も、同じ分だけ距離を詰める。
何の合図なのか、どう応じればいいのか、見当もつかない。
これは一体、どういう状況なのだろう。
調理場の明るい灯りの下で、私はただ、その理由の分からなさに立ち尽くしていた。
そのとき、救いの女神のように熊本さんが戻ってきた。
「ハムちゃんのマネしてるの? 面白いんだけど!」
――ハムスターの、マネ。
思わず瞬きをする。
確かに休憩前、そんな話をしていた。
していたけれど、なぜ今、ここで?
私に何か不満があって、からかわれているのか。
そう考えた途端、余計に分からなくなる。
戸惑っている間にも、男はまた、
「じー、じー」
と言いながら、台車を押して近づいてくる。
心がドキドキした。
何とも表現しがたい感情が、胸の内を満たしていく。
その様子を眺めていた料理長が、面白そうに口を挟んだ。
「珍しいなあ。こいつが自分から人に関わっていくなんて」
軽い調子だった。
特別な出来事でもないかのように、そしてすぐ調理場全体に向けるように言う。
「ほら、今は忙しいんやから。遊んどらんと、仕事しよか」
その一言で場は動き出し、
私だけが、何一つ理解できないまま、そこに取り残された。
夕食の時間が始まった。
熊本さんと支配人の指示に従い、料理を運ぶ。
数日目にもなると、動きは自然と身体に馴染んできていた。
「このお肉、追加いただけないかしら?」
「少々お待ちください。確認してまいります」
調理場へ戻り、様子をうかがいながら声をかける。
「お肉って、追加分ありますか?」
料理長が手を止めずに答える。
「追加料金かかってええなら、あるで。何枚いるん?」
「確認してきます」
客席に戻り、追加料金がかかることを伝え、必要な枚数を聞いてから、再び調理場へ戻る。
「二人前だそうです」
「やて。ほな、よろしくな」
料理長のその一言で、人見知りの男が黙ってまな板の前に立った。
何も言わず、ただ包丁を手に取る。
「え? 今から切るんですか?」
「せやで」
「あんなに薄く……? 機械で切るんじゃないんですか?」
「そんなんしたら厚なってまうやろ。こいつが切った方が、よう薄なんねん」
料理長が言い終わる前から、男の手は動いていた。
迷いのない包丁さばきで、肉は音も立てずに切り分けられていく。
人見知りかどうかなんて、料理には関係ない。
目の前で繰り返される動きを見て、胸の奥がじんと熱くなった。
――この人、凄い。
機械よりも薄く、正確に肉を切る技術を、私はただ黙って見つめていた。
慌ただしい夕食が終わり、部屋へ戻って休む。
先ほど、肉を切っていた彼の姿が、どうしても頭から離れなかった。
包丁を握る手、無駄のない動き、その横顔――思い返すたび、胸の奥がざわつく。
気を紛らわせるように、なんとなくミラーボールのスイッチを入れた。
天井に散る光は、疲れた心にはあまりにも眩しく、どこか鬱陶しい。
けれど、その単調な反射に目を奪われているうちに、
いつの間にか彼のことは思い出さなくなっていた。
アルバイトも終盤に差し掛かった七日目。
お客様の朝食が終わり、ようやく自分たちの朝食の時間になった。
住み込みのアルバイトは三食付きと聞いていたけれど、
実際に出るのは毎食、仕出しの弁当だった。
七日目ともなると、さすがに飽きが来て、
箸をつける気力も湧かなくなる。
そんなとき、ホールリーダーが「これ」と言って、
一本のキュウリを差し出してくれた。
聞けば、たまたま自分の家で採れたものらしい。
何気なくかじった瞬間、あまりの瑞々しさに、
思わず涙が出るのではないかと思うほどだった。
「美味しすぎるぅぅぅ」
「山本ちゃん、感動しすぎ」
「だって、毎日お弁当ばっかりで、飽きてたんです。
たぶん、私が本当に欲してたのはキュウリだったんですよ。
前世、河童だったのかもしれません」
冗談半分でそう言うと、ホールリーダーは嬉しそうに笑って、
「また持ってくるね」と約束してくれた。
そのやり取りを、通路の向こうから人見知りの彼が見ていたことに、
私はまだ気づいていなかった。
その日の夕方、仕事前に仕出しの弁当を広げていると、
料理長がふいに声をかけてきた。
「サンマ、食べへん?」
「好きです。食べます」
考えるより早く、即答していた。
気がつけば、料理長と人見知りの彼と、
なぜか三人並んでサンマを食べる流れになっていた。
目の前に置かれた皿から、香ばしい匂いが立ちのぼる。
「これな、こいつが焼いたんやけど、人数分あらへんねん。
みんなには内緒やで」
「分かりました」
小さくうなずきながら箸を伸ばす。
そのまま、何の迷いもなくポン酢をかけた瞬間、
料理長の声が飛んできた。
「ちょ、何してんねん」
「ポン酢かけました。美味しいですよ」
「何言うてんねん。もったいないやろ。
サンマは醤油に決まっとるやん」
「そうですか? 油がさっぱりして、美味しいのに」
空気が、ほんの一瞬だけ微妙になる。
食べ方ひとつで、こんなにも間が生まれるのかと内心苦笑した。
人間関係を円滑にするというのは、案外、難しい。
それでも、サンマにポン酢が合うのは事実だ。
譲る気はなかった。
その横で、人見知りの彼は何も言わず、
ただ黙々とサンマを食べていた。
つかの間の休憩が終わると、合図もないまま夕食の時間が始まった。
調理場の空気が、さっと張りつめる。
もう何度も繰り返した流れだ。
私は無駄なことを考えず、体に染みついた動きで作業をこなしていく。
包丁の音、鍋の湯気、誰かの短い指示。
そのすべてが、少し前よりもはっきり聞こえるようになっていた。
時々、調味料の置き場が分からなくなる。
そんなとき、声をかける前に、彼はすっと現れる。
まるで魔法使いだ、と本気で思う。
人見知りのくせに、必要なものだけを正確に差し出して、
何も言わずに去っていく。
そのおかげで、仕事は驚くほどやりやすくなった。
気づけば、私は強くなっていた。
台車が背後から迫ってきても、もう慌てない。
調理場の構造を覚え、抜け道も死角も把握している。
するりとかわし、別の通路へ逃げるのが、
いつの間にか上手くなっていた。
彼も次の手を考えてくる。
フェイントをかけ、別方向から追い込もうとする。
けれど私も、人を盾にする術を身につけていた。
誰かの背後に紛れ込み、視線をずらす。
ここでしか通用しない、奇妙な戦い方だ。
包丁も鍋も持たない場所で、
私の中のスキルだけが、確実にレベルアップしていく。
他の仕事では、きっと役に立たない。
それでも――この戦場では、確かな成長だった。
不思議と、自分の成長を感じていたアルバイト最終日だった。
朝食の仕事を終えると、そのまま簡単な打ち合わせが始まる。
私はそこで、「ありがとうございました」と頭を下げた。
もう少しここで働いていたい、そんな気持ちが胸をよぎる。
けれど、夏休みの期間は最初から決まっていた。
それを変えることはできない。
ちらりと調理場に目を向けたが、
そこにはもう誰の姿もなかった。
彼がいないと分かった瞬間、
胸の奥が、わずかに沈んだ。
「色々助かったよ、山本さん。
荷物を持ってきたら、駅まで送っていくよ」
支配人がそう言ってくれた。
気遣いが自然で、最後までどこまでもスマートな人だった。
駅に着き、車を降りる。
私は改めて支配人に向き直る。
「沢山ありがとうございました。
とても充実した夏休みになりました」
「こちらこそありがとう。
ホテルはいつでも人手不足だから、
働きたくなったら連絡してね」
「はい。では、電車の時間なので行きますね。
本当にありがとうございました」
そう言って、改札を通る。
ホームに立つと、
支配人の車がゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。
最後に、挨拶できなかったな――。
胸の奥が、少しだけきゅっと縮む。
なぜなのかは分からない。
ただ、もう彼に会えなくなることが、
思っていた以上に寂しく感じられた。
朝の薄い光を受けて、鈍く反射するそれが、ひどく鬱陶しく感じられる。
そうだ――と思い出す。
昨日からホテルで住み込みのアルバイトを始めたのだが、空き部屋がなく、今は使われていないカラオケルームを仮の住まいにあてがわれていたのだった。
現実味のない「自分の部屋」に、まだしっくりこない違和感を覚えながら、仕事着に着替える。
住み込みなので、徒歩一分で出勤する。
気持ちを切り替える間もなく、仕事が始まった。
朝のフロアでは、すでに朝食会場のスタッフが慌ただしく動いていた。
私はその中にいた支配人に近づき、声をかける。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
初めての職場に、思った以上に緊張していたらしい。
自分でもわかるほど、声が少し上ずっていた。
「おはようございます。朝食の時間まであまり余裕がないから、さっそくお願いするね」
支配人は手早くそう告げる。
「まずはお水を各テーブルに置いてきて。今朝のテーブル配置と人数は、そこに貼ってあるから、自分で確認してね」
それだけ言うと、支配人は足早にフロントへと戻っていった。
慣れない作業をこなしながら、出勤してくる人たちに次々と挨拶をしていく。
誰もがすでに忙しそうで、立ち止まって言葉を交わす余裕はなさそうだった。
次に何をすればいいのかわからず、近くにいた調理場のスタッフに声をかける。
だが、返事は返ってこない。
聞こえていないのか、それとも聞こえないふりをされたのか判断がつかず、私はその場で少し戸惑った。
代わりに、少し離れた場所から、低く通る声が飛んでくる。
「そいつ、人見知りやから。話しかけても無駄やで」
振り向くと、料理長らしき人物が腕を組んでこちらを見ていた。
「それに、ホールの仕事はホールの人に聞き」
そう言って、彼はそれ以上関わる気はないというように、再び調理場へと意識を戻した。
「すみません」
短くそう言って、私はホールへと出た。
すでに朝食の時間が始まっているらしく、客席には人の気配と食器の触れ合う音が満ちていた。
支配人を見つけて声をかけると、申し訳なさそうな表情で言われる。
朝食のピーク時に新人の面倒を見る余裕はない。
だから今日は、調理場で夜用の食器の枚数を確認してほしい――という指示だった。
私は再び調理場へ戻り、夜用の食器を探し始める。
けれど、当然ながら食器に「夜用」などと書いてあるはずもない。
棚を一つ一つ見回すうちに、次第に途方に暮れてきた。
そのとき、背後に人の気配を感じる。
「……ん」
振り向くと、先ほどの人見知りの調理人が、無言で棚の一角を指さしていた。
言葉はそれだけだったが、十分だった。
助かった――と胸の内で安堵し、お礼を言おうと振り返る。
だが、彼の姿はもう調理場にはなかった。
朝食の時間が終わり、ホールのスタッフが一か所に集められた。
働き始めてまだ数時間、簡単な打ち合わせに参加したあと、流れで自己紹介をすることになる。
「今日から夏休みの間だけお世話になります、山本です。初めてのアルバイトですが、精一杯頑張りますので、よろしくお願いします」
少し緊張しながら頭を下げると、すぐに声が返ってきた。
「お姉ちゃん、よろしくな」
にこやかな表情の中年の男性だった。
その軽い口調に、張り詰めていた肩の力が少し抜ける。
「分からないことがあったら、何でも聞いてね」
続いて、ホールリーダーの女性が柔らかく微笑みながら声をかけてくれた。
その一言に、胸の奥がほっと温かくなる。
「明日には、別のホテルからヘルプの人も来る予定だから」
支配人が全体を見渡して言う。
「みんなで協力して、乗り切りましょう」
それだけ告げると、支配人は事務所へと戻っていった。
翌日、ヘルプの人が何人か来ていた。
そのうちの一人は隣のカラオケルームに住むことになった。
ペットのハムスターも一緒に来ていた。
住み込みのバイトって、ペット可なんだと驚いた。
もう一人は今は使われていない、百畳の大広間に住むことになった。
この時、自分が女性でよかったと思った。
(たぶん、女性だから鍵のかかるカラオケルームだったんだろうな……)
あとで聞いた話だが、百畳の部屋へ通された新人はその日の夜、誰にも行き先を告げずに帰って行ったようであった。
朝から、朝食準備の慌ただしさが始まった。
私はテーブルクロスをかけ、カトラリーを並べる役を任される。
カトラリーを使う朝食など初めてで、少し戸惑った。
ヘルプで来ていた女性が、並べ方を丁寧に教えてくれる。
さすが応援に来ただけあって、動きに無駄がなく、仕事も完璧だった。
朝食の時間が始まると、私は調理場の端で、夜用の皿の準備を進めることになった。
そして、なぜか今日は――隣で人見知りの調理人が夜の仕込みをしていた。
「私、熊本っていうの。よろしくね、山本さん」
「はい」
芸能人みたいな風貌の彼女に見ほれる。
もはや彼女は、私の女神であると感じた。
「みんな忙しいから、今のうちにコーヒーメーカーの使い方とか覚えておこうか。後は、夜の食材の場所とか。色々覚えておいた方が、夜、動きやすいと思うから」
「ありがとうございます」
何も聞いてないのに率先して教えてくれるなんて、本当にいい人だと思った。
初めてのバイトで、分からないことが分からず、質問しようにもできないでいたからだ。
ホテルのアルバイトは、覚えることがとにかく多かった。
カトラリーの仕上げ拭きや、食後のホールの片づけ。
お客様と関わるようになると、配膳の際にはメニューの名称を覚え、食事の進み具合を見ながら下膳のタイミングを判断しなければならない。
気の抜ける時間は、まったくなかった。
自分が客として来ていた頃は、スタッフの気遣いなど、正直なところ考えたこともなかった。
だが、いざ自分がやってみると、それがいかに難しい仕事かがわかる。
クレーマーに当たったらどうしよう――。
そう思うと、怖くて仕方がなかった。
けれど、実際にクレーマーに当たることはなかった。
支配人や熊本さんが指示した席にしか、私は配膳に行かなかったからだ。
二人はいつも最初にホールへ出て、お客様を案内しながら対応していた。
そのときに、さりげなく客層を見極め、私には比較的安全なお客様だけを任せてくれていたのだ。
そのことに気づいたのは、何日も経ってからのことだった。
「熊本さんって、すごいですね!」
思わず、心から感じたままを口にしていた。
「そんなことないよ」
熊本さんは少し照れたように笑う。
その表情を見て、前から気になっていたことを聞いてみた。
「熊本さん、どうしてハムスターを連れてきたんですか?」
「ハムちゃん?」
一瞬きょとんとしたあと、すぐに顔がほころぶ。
「あとで見に来る? すっごい癒やしなんだよ」
「いいんですか? ありがとうございます。楽しみです!」
「いいよいいよ。休憩時間においで。触らせてあげる」
軽い調子のその一言が、胸の奥まであたたかく届いた。
やっぱり熊本さんは、本当に女神みたいな人だと思った。
「そうそう、あと、気づいてなさそうだから伝えておくけど、今いる私以外のヘルプは、みんな他のホテルの支配人だからね。覚えておいてね」
衝撃の事実に、声が出なかった。
皆さん、動きが凄いとは思っていたけれど、プロという言葉では収まらない人たちだった。
どおりで、誰も質問をせず、当たり前のようにスマートに動けるわけだ。
自分の能力が低すぎるのかと不安になっていたが、比べる対象を間違えていたのだと分かると、なぜか胸の奥が少し軽くなった。
できないのも無理はない。そう思えた。
慌ただしい朝食が終わると、朝のミーティングが始まった。
「今日から満室の日が続きます。皆さん、大変ですがよろしくお願いします」
支配人がそう告げると、別の支配人がすぐに続ける。
「大丈夫! 僕たちも手伝うから、何かあったらすぐ相談してね」
場の空気が、ふっと和らいだ。
なるほど。
夏休みはホテルの繁忙期なのか。
世の中の仕組みが、少しだけ分かった気がした。
ミーティングが終わると、支配人に呼び止められた。
名前を呼ばれたのは、熊本さんと私だけだった。
「実はね、客室清掃の人手が足りなくて。このあと、少し手伝ってもらえないかな?」
一瞬だけ迷う間があったが、熊本さんは当然のようにうなずいた。
「分かりました」
その様子に引っ張られるように、私も続けて返事をする。
「……分かりました」
「ありがとう。じゃあ、朝食後の十時から客室に向かって。もう作業している人がいるから、やり方はそこで聞いてくれるかな」
「はい」
短いやり取りを終え、私たちはその場を後にした。
――客室清掃。
正直、少しだけ楽しみにしていた。
誰かが泊まった後の部屋に入るなんて、まるで廃墟を探索するみたいで、何か特別なものが残っていそうな気がしたからだ。
そのワクワクが、完全に見当違いだったと知るのは、一時間後のことである。
朝食を済ませ、熊本さんと並んで清掃エリアへ向かう。
私に割り振られた作業は単純だった。
すべての部屋を回り、シーツ、タオル、パジャマを回収してリネン袋に分けて入れる。
その後、各部屋に掃除機をかける。
――単純、のはずだった。
シーツもパジャマもタオルも、部屋ごとに置き場所が違う。
ベッドの下、クローゼットの奥、椅子の背もたれ。
しかも、お客さんが来る十五時までに、すべてを終わらせなければならない。
ゆっくり探している余裕など、どこにもなかった。
部屋から部屋へ、走るように移動する。
腕はすぐに重くなり、息も上がった。
客室清掃は、想像していたよりもずっと、体力勝負だった。
十四時半を少し回った頃、廊下の向こうから声が飛んできた。
「あと三十分で十五時だけど、各部屋の掃除とセッティング、終わってる?」
「はーい……」
自分でも驚くほど、疲れのにじんだ返事だった。
客室清掃が、ここまで大変だなんて思ってもみなかった。
これまでホテルに泊まったとき、廊下で高齢の女性たちが黙々と掃除をしている姿を何度も見てきたけれど、あの人たちはきっと、アスリートだったのだろう。
そう考えながら、私は最後に清掃を終えた部屋の入口に、そのまま座り込んだ。
そのときだった。
人見知りの彼が、客室清掃には似つかわしくない白衣姿で、下駄の乾いた音を立てながら、いつの間にかそこに立っていた。
「何してんの?」
「見たら分かるじゃないですか。掃除です」
「でも、座ってるじゃん」
「今、終わったところなんです。少し休んでただけなので、もう戻ります」
「ふーん」
一瞬、間を置いて、今度は私が聞き返す。
「あなたこそ、どうしてここに?」
「朝、話してたじゃん。ハムスター見るって」
「……?」
「部屋に行ったら誰もいないから、探しに来た」
「え? あ、そうなんですか……」
この人と、そんな約束をしただろうか。
そう思ったけれど、余計なことは言わずに、私はそのまま立ち上がった。
清掃リーダーによる最終確認が終わり、私と熊本さんは部屋へ戻ることになった。
夜の勤務は十七時から。少し休もう、という話だった。
なぜか、人見知りの彼も一緒に参加していた。
けれど、誰も突っ込まない。
彼が人見知りだということは、もう周知の事実だったからだ。
熊本さんと並んで歩き出すと、彼は黙って後ろについてくる。
その距離感が妙に気になって、思わず口を開いた。
「……どうして、ついてくるんですか」
「俺の部屋、そこ」
そう言って、通路の向かい側の部屋を指さす。
ついてきていたわけではなかったのだ。
自分の勘違いが恥ずかしくなり、それ以上、何も言えなくなった。
その様子を見ていた熊本さんが、彼に声をかける。
「ハムスター、見てく?」
「ん」
「じゃあ、今連れてくるね。二人とも、ちょっと待ってて」
そう言って部屋に入っていく。
ほんの数秒のはずなのに、その間がやけに長く感じられた。
沈黙が落ち着かず、視線のやり場にも困る。
やがて熊本さんの部屋のドアが開き、手には小さなケージが抱えられていた。
近づかなくても分かった。
――かわいい。触りたい。
けれど、その願いは叶わなかった。
「じーじー」
初めて聞く、ハムスターの鳴き声だった。
「ごめんね。この子、今日は機嫌が悪いみたい」
熊本さんはそう言って、少し困ったように笑った。
二時間の休憩を終え、夜の勤務に向かう。
調理場に入ると、すでに皆が持ち場についていた。
「お疲れ様です」
声をかけてから、邪魔にならないよう隅へ回る。
今日のメインはミニしゃぶしゃぶだった。
黒い長皿に、小ぶりで洒落た小鉢を三つ並べる。
胡麻だれ、ポン酢、塩。
それぞれを注いでいく。
どれも、近所のスーパーではまず見かけない味と色をしている。
黙々と手を動かしていると、背後から声がした。
「じー、じー」
振り返ると、人見知りだと聞いていた男が、台車を押しながらこちらへ向かってきていた。
意味が分からなかった。
困って一歩、後ろへ下がる。
「じー、じー」
男も、同じ分だけ距離を詰める。
何の合図なのか、どう応じればいいのか、見当もつかない。
これは一体、どういう状況なのだろう。
調理場の明るい灯りの下で、私はただ、その理由の分からなさに立ち尽くしていた。
そのとき、救いの女神のように熊本さんが戻ってきた。
「ハムちゃんのマネしてるの? 面白いんだけど!」
――ハムスターの、マネ。
思わず瞬きをする。
確かに休憩前、そんな話をしていた。
していたけれど、なぜ今、ここで?
私に何か不満があって、からかわれているのか。
そう考えた途端、余計に分からなくなる。
戸惑っている間にも、男はまた、
「じー、じー」
と言いながら、台車を押して近づいてくる。
心がドキドキした。
何とも表現しがたい感情が、胸の内を満たしていく。
その様子を眺めていた料理長が、面白そうに口を挟んだ。
「珍しいなあ。こいつが自分から人に関わっていくなんて」
軽い調子だった。
特別な出来事でもないかのように、そしてすぐ調理場全体に向けるように言う。
「ほら、今は忙しいんやから。遊んどらんと、仕事しよか」
その一言で場は動き出し、
私だけが、何一つ理解できないまま、そこに取り残された。
夕食の時間が始まった。
熊本さんと支配人の指示に従い、料理を運ぶ。
数日目にもなると、動きは自然と身体に馴染んできていた。
「このお肉、追加いただけないかしら?」
「少々お待ちください。確認してまいります」
調理場へ戻り、様子をうかがいながら声をかける。
「お肉って、追加分ありますか?」
料理長が手を止めずに答える。
「追加料金かかってええなら、あるで。何枚いるん?」
「確認してきます」
客席に戻り、追加料金がかかることを伝え、必要な枚数を聞いてから、再び調理場へ戻る。
「二人前だそうです」
「やて。ほな、よろしくな」
料理長のその一言で、人見知りの男が黙ってまな板の前に立った。
何も言わず、ただ包丁を手に取る。
「え? 今から切るんですか?」
「せやで」
「あんなに薄く……? 機械で切るんじゃないんですか?」
「そんなんしたら厚なってまうやろ。こいつが切った方が、よう薄なんねん」
料理長が言い終わる前から、男の手は動いていた。
迷いのない包丁さばきで、肉は音も立てずに切り分けられていく。
人見知りかどうかなんて、料理には関係ない。
目の前で繰り返される動きを見て、胸の奥がじんと熱くなった。
――この人、凄い。
機械よりも薄く、正確に肉を切る技術を、私はただ黙って見つめていた。
慌ただしい夕食が終わり、部屋へ戻って休む。
先ほど、肉を切っていた彼の姿が、どうしても頭から離れなかった。
包丁を握る手、無駄のない動き、その横顔――思い返すたび、胸の奥がざわつく。
気を紛らわせるように、なんとなくミラーボールのスイッチを入れた。
天井に散る光は、疲れた心にはあまりにも眩しく、どこか鬱陶しい。
けれど、その単調な反射に目を奪われているうちに、
いつの間にか彼のことは思い出さなくなっていた。
アルバイトも終盤に差し掛かった七日目。
お客様の朝食が終わり、ようやく自分たちの朝食の時間になった。
住み込みのアルバイトは三食付きと聞いていたけれど、
実際に出るのは毎食、仕出しの弁当だった。
七日目ともなると、さすがに飽きが来て、
箸をつける気力も湧かなくなる。
そんなとき、ホールリーダーが「これ」と言って、
一本のキュウリを差し出してくれた。
聞けば、たまたま自分の家で採れたものらしい。
何気なくかじった瞬間、あまりの瑞々しさに、
思わず涙が出るのではないかと思うほどだった。
「美味しすぎるぅぅぅ」
「山本ちゃん、感動しすぎ」
「だって、毎日お弁当ばっかりで、飽きてたんです。
たぶん、私が本当に欲してたのはキュウリだったんですよ。
前世、河童だったのかもしれません」
冗談半分でそう言うと、ホールリーダーは嬉しそうに笑って、
「また持ってくるね」と約束してくれた。
そのやり取りを、通路の向こうから人見知りの彼が見ていたことに、
私はまだ気づいていなかった。
その日の夕方、仕事前に仕出しの弁当を広げていると、
料理長がふいに声をかけてきた。
「サンマ、食べへん?」
「好きです。食べます」
考えるより早く、即答していた。
気がつけば、料理長と人見知りの彼と、
なぜか三人並んでサンマを食べる流れになっていた。
目の前に置かれた皿から、香ばしい匂いが立ちのぼる。
「これな、こいつが焼いたんやけど、人数分あらへんねん。
みんなには内緒やで」
「分かりました」
小さくうなずきながら箸を伸ばす。
そのまま、何の迷いもなくポン酢をかけた瞬間、
料理長の声が飛んできた。
「ちょ、何してんねん」
「ポン酢かけました。美味しいですよ」
「何言うてんねん。もったいないやろ。
サンマは醤油に決まっとるやん」
「そうですか? 油がさっぱりして、美味しいのに」
空気が、ほんの一瞬だけ微妙になる。
食べ方ひとつで、こんなにも間が生まれるのかと内心苦笑した。
人間関係を円滑にするというのは、案外、難しい。
それでも、サンマにポン酢が合うのは事実だ。
譲る気はなかった。
その横で、人見知りの彼は何も言わず、
ただ黙々とサンマを食べていた。
つかの間の休憩が終わると、合図もないまま夕食の時間が始まった。
調理場の空気が、さっと張りつめる。
もう何度も繰り返した流れだ。
私は無駄なことを考えず、体に染みついた動きで作業をこなしていく。
包丁の音、鍋の湯気、誰かの短い指示。
そのすべてが、少し前よりもはっきり聞こえるようになっていた。
時々、調味料の置き場が分からなくなる。
そんなとき、声をかける前に、彼はすっと現れる。
まるで魔法使いだ、と本気で思う。
人見知りのくせに、必要なものだけを正確に差し出して、
何も言わずに去っていく。
そのおかげで、仕事は驚くほどやりやすくなった。
気づけば、私は強くなっていた。
台車が背後から迫ってきても、もう慌てない。
調理場の構造を覚え、抜け道も死角も把握している。
するりとかわし、別の通路へ逃げるのが、
いつの間にか上手くなっていた。
彼も次の手を考えてくる。
フェイントをかけ、別方向から追い込もうとする。
けれど私も、人を盾にする術を身につけていた。
誰かの背後に紛れ込み、視線をずらす。
ここでしか通用しない、奇妙な戦い方だ。
包丁も鍋も持たない場所で、
私の中のスキルだけが、確実にレベルアップしていく。
他の仕事では、きっと役に立たない。
それでも――この戦場では、確かな成長だった。
不思議と、自分の成長を感じていたアルバイト最終日だった。
朝食の仕事を終えると、そのまま簡単な打ち合わせが始まる。
私はそこで、「ありがとうございました」と頭を下げた。
もう少しここで働いていたい、そんな気持ちが胸をよぎる。
けれど、夏休みの期間は最初から決まっていた。
それを変えることはできない。
ちらりと調理場に目を向けたが、
そこにはもう誰の姿もなかった。
彼がいないと分かった瞬間、
胸の奥が、わずかに沈んだ。
「色々助かったよ、山本さん。
荷物を持ってきたら、駅まで送っていくよ」
支配人がそう言ってくれた。
気遣いが自然で、最後までどこまでもスマートな人だった。
駅に着き、車を降りる。
私は改めて支配人に向き直る。
「沢山ありがとうございました。
とても充実した夏休みになりました」
「こちらこそありがとう。
ホテルはいつでも人手不足だから、
働きたくなったら連絡してね」
「はい。では、電車の時間なので行きますね。
本当にありがとうございました」
そう言って、改札を通る。
ホームに立つと、
支配人の車がゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。
最後に、挨拶できなかったな――。
胸の奥が、少しだけきゅっと縮む。
なぜなのかは分からない。
ただ、もう彼に会えなくなることが、
思っていた以上に寂しく感じられた。
