捕らぬ狸の皮算用をするつもりではない。けれど南の勇者、リオウを倒したらひとまずこの世界は安定する。紫苑自身も、ほぼお役御免と言っていい。そもそも自分は、勇者に彼らが困らされているから、それを助けるために協力させて欲しいと願い出た立場だ。
元より、生きる世界が違う。最近はこの世界に入り浸ることが増えてしまったけれど、紫苑の本来生きるべき世界は現代日本にある。リア・ユートピアがどれほど興味深い世界であっても、この世界の常識は紫苑のそれとはあまりにも異なるもの。この世界で、生きていくことはできない。あちらの世界にこそ紫苑の家があり、家族がいて、友達や知り合い――生活が存在するのだから。そしてそれは、アーリアにとってのリア・ユートピアと同じであることだろう。
自分達は、生きる世界が違う。
世界に流れる、時の流れさえも異なる。
一緒に生きることなど出来ない。そして七倍速でこの世界の方が早く時間が流れ、リア・ユートピアの“人間”の寿命が現世とさほど変わらないことを踏まえれば――普通に考えて、アーリアの方がずっと早くこの世を去ることになるのは明白である。
だから必ず、別れの時はやってくる。それもけして遠いものではないはずだ。自分達は、ずっと共に生きることなどできない。アーリアもきっと、そんなことはわかっているだろう。
だから、紫苑は。その最後の時が来る前に、それがはっきりと目の前に迫ってくる前に――後悔しない選択をしたいと、そう願うのである。
「……僕は、とても裕福で、幸せで、平凡な家庭に育った子供です。貴方やこの世界の人々と比べたら、きっと辛いことの多くを知らないことでしょう。もしかしたら、勇者の彼らよりも」
悩んだり、苦しんだことがないわけではない。
小柄で運動音痴であった紫苑は、いじめられることが少なくなかった。リレーなどでは全力で走ってもすぐに周りの子に追いつかれてしまうし、バレーボールをやればサーブさえもミスしてボールを落としてばかりの体たらく。運動は、どんなに頑張っても人並み程度にできるようにはならなかった。むしろ一生懸命やろうとすればするほど空回り、次第に先生やクラスメートから「やる気があるのか」と冷たい目を向けられる始末である。
ドンくさくてどれだけ走ってもみんなの背に届くことのない手。置いていかれてばかり、劣等感、劣等感――ただ紫苑が唯一人より優れていたことがあるとすれば、とにかく負けず嫌いであり、見た目に反して苛烈な本性を持っていたということだけであろうか。
運動能力には、どうしても限界があるらしい。ならば他のことで役に立てるということをみんなに見せるしかない。勉強ならば、やればやるだけ運動よりはマシな身につき方をするはず。成績で、そしてスポーツであっても作戦でみんなをサポートする。それできっと、馬鹿にしてきた連中を見返してやれるはずだと。
だから紫苑は、ひたすら机に向かった。そしてスポーツ大会などでは、他のチームを分析し、いわば主務やマネージャーのような立場に立つことで自らの地位を確立していったのである。紫苑を見下していた者達が、やがて頭を下げて頼ってくるようになるまで。
「ちょっとチビで、運動音痴だったせいでいじめられたことはあったけど、ただそれだけです。僕には、自分の運命を大人しく受け入れてやれるような器量なんてありませんでした。馬鹿にされたら、馬鹿にされたまま黙って下を向くなんて耐えられない性分でした。……僕が人より優れていることがあるとしたら、きっとそれだけです。負けず嫌いで、気が短い。それだけなんですよ、きっと」
「だから、作戦とか、そういうことで役に立とうとしたってわけか。……なんとなく納得したかも。君が今まで努力してきたことが、今の私達にこんなにも役立ってくれてる。君はこの世界でも、いつもやってきたことと同じことをやってくれてたわけだ?」
「そう仰ってくださるのは光栄ですけどね。流石に、人の生き死にを左右するような作戦を立てたのは初めてですよ。アヤナとの駆け引きだって、本当は緊張で倒れそうだったんですから」
「ええ?クラリスはそうは見えなかったって言ってたけどなあ……」
買いかぶりすぎだ、本当に。紫苑は苦笑するしかない。あのクラリスが、どうやらアーリアに対して特別な感情を抱いているらしいというのはわかっている。というか、アーリアは本人が気づいてないだけで滅茶苦茶モテているのは明白なのだ。先日助けた東の地のエリーゼにも随分好意を寄せられていた様子であるし。
彼女らが嫌な人間だったなら、自分も簡単に嫉妬することができたのに、と紫苑は思う。そうやって彼女らは戦士らしく真っ直ぐで、紫苑のことも対等に評価を下してくれるものだから憎むに憎めない。例えそれが、恋敵であったとしても、だ。
「僕はそんなかんじで、負けず嫌いで……欲しいものは、何が何でも手に入れてやるぞっていうタチでしたから。だからこそ……あの時だけは、耐えられないって思ったんでしょうね。僕の人生でたった一つ、どうしても手に入れないもの……いえ、取り戻せないものができてしまった瞬間でしたから」
小学生の時だ。一個上の上級生に、とても優しい近所のお兄さんがいた。勿論向こうも小学生なのでお兄さんなんて年ではないし、体格で言えば女の子で年下の紫苑ともさほど変わらないようなものであったが――とにかく勇敢で、喧嘩が強かったのである。どれほど体が大きなガキ大将にも果敢に向かって行き、信じたことは絶対に負けない性格だった。
そんな彼は、学校でも有名人だった。いじめられたらあの子に助けを求めればきっと助けてくれる、なんてことも言われるほどで。
みんなに尊敬と時に揶揄をも込めてこう呼ばれていたのだ――ヒーロー、と。
「一つ年上の、男の子でした。同じ小学校の上級生。正義感が強くて、みんなのヒーローと呼ばれていたその子は、両親がアメリカ人で。金髪で青い眼で……丁度、貴方のような外見だったんですよ。僕が自分を“僕”と言うようになったのも、男の子みたいな服装や言動を好むようになったのも、彼の影響です。……多分、あれが。僕の初恋だったんだと思います」
向日葵が咲いたように笑う子だった。
負けず嫌いで、けれど当時は悔しくて泣いてしまうことも少なくなかった紫苑のところに飛んできて、いつも慰めてくれたのが彼で。
頭を撫でる優しい手も、声も、今もしっかりと記憶の奥底に焼きついて離れずにいるのだ。イケメンだったのに全然気取らなくて、天真爛漫で優しい『お兄さん』を一体どうして、好きにならずにいられるというのだろう。
「泣いているといつも慰めに来てくれて、近所に住んでいたからというだけで僕には一際親切にしてくれて。淋しい時はいつも、僕の手を引いて歩いてくれました。……あの頃の僕は、当たり前のように信じていたんです。この手はいつまでも傍にあるって。ずっと手を繋いで歩いていけるはずだって」
幼かったとはいえ、愚かなことを信じていたものである。
自分達はいずれ大人になる。都合の良い神様がいないなら、ご都合主義の永遠なんて絶対にあるはずもなかったというのに。
「そんな優しかった彼は。ある時突然……僕の世界から、いなくなってしまいました。同じクラスの、いじめられていた男の子を助けようとして……いじめっ子達に川に突き落とされたその子を助けるために飛び込んで。その子は助かったけど彼は……大雨で増水した川に流されて、そのまま」
あれほど泣いた日々は、人生で一度もなかったと断言できる。
どんなに泣いても、叫んでも、いじめっ子達を責めても罵倒しても。失ったものは、けして帰ってくることなどない。一番欲しいものは、一番大切だったものは。あっさりと紫苑の手をすり抜けて失われてしまったのである。
「……その子の名前は、月岡有登」
そこまで語って、紫苑は伏せていた顔を上げ、アーリアを見た。
「その名前に、覚えはありませんか……“アーリア”」
「……っ」
アーリアの眼の奥が、揺らぐ。名前は、確かに似ていた。見た目も。それでも紫苑が当初、アーリアと有登が同一人物だと思わなかったのは、単純に年齢が合致しなかったからである。
この世界では、七倍速で時間が過ぎる。この世界での一週間が、現代日本の一日にあたる。
もし有登がアーリアとして転生、あるいは転移したのなら。彼は赤ん坊で生まれてもそのまま転移しても、生きていたとて相当な年齢になっているはずだ。少なくとも、こんなにも若いなんてことは有り得ないはずである。むしろ、こんな中途半端な年齢差であることがおかしい。当時一歳差だった自分達が、何故三つ程度の年の差で現在此処に存在していることになどなるのか。
だが、改めて冷静に考えるなら、もう一つ可能性もあったのではないか。向こうで死んですぐ、転生・転移したとは限らない。死んだのが八年前でも、その魂が飛んできたのが――この世界での五十六年前だと、何故言い切れる?
異世界転移・転生なんて。それそのものが理を破壊しかねない行為であることなど、勇者達の例で嫌というほど知っていたはずだというのに。
「……わからない」
アーリアは、首を振る。わからないんだよ、と申し訳なさそうに俯いて。
「私は、幼い子供の姿でこの世界で倒れていて、それを発見された……それは間違いないけど。そもそもこの世界に来たばかりの時の記憶もあやふやなんだ。ただ、覚えているのはこの世界での記憶だけ。この街でみんなに救われた時間だけ。……前世なんてものがあったのかどうか、それが君が言う『有登』であるのかなんて全然わかんないんだよ……」
「そう、ですか」
「でも。わからないけど……確かに、ちょっとおかしいとは思ってたんだ。何度か君達の世界に行くたび懐かしい気持ちになるのもそうだし……まだ学んでいないはずのモノの名前とか、言葉とか、何でだか分かることがいっぱいあったから、だから……」
でも、と。彼は再度頭を振って、泣きそうな顔になる。やっぱりダメだよ、と繰り返しながら。
「もし、私がその『有登』の転生者か、転移者であったとしても。……私はもう、有登じゃないよ。だって、有登だった記憶も人格も、私の中にはないんだから。だから……ごめん」
それは、十分に予想できた答えだった。ただ、何故だかアーリアの方が泣きそうで、悲しそうで。その方がひどく苦しくてたまらなくなるのである。
彼は、笑っていてくれる方がずっと似合っている。
そして自分が今彼の役に立ちたいのは、彼が有登に似ていたからというだけではなくて、彼が有登の転生かもしれないからではきっとなくて。
「謝らないでください、だって、僕は……」
言いかけた言葉は、中途半端に止まった。
その先を伝えることが、本当に自分にとって、あるいは彼にとっての『正しさ』に繋がるのか。暫しの逡巡が、二人の間の時間を少しだけ止めたのである。
目に見える答えに触れてしまうことに、どこかで怯えるかのように。
元より、生きる世界が違う。最近はこの世界に入り浸ることが増えてしまったけれど、紫苑の本来生きるべき世界は現代日本にある。リア・ユートピアがどれほど興味深い世界であっても、この世界の常識は紫苑のそれとはあまりにも異なるもの。この世界で、生きていくことはできない。あちらの世界にこそ紫苑の家があり、家族がいて、友達や知り合い――生活が存在するのだから。そしてそれは、アーリアにとってのリア・ユートピアと同じであることだろう。
自分達は、生きる世界が違う。
世界に流れる、時の流れさえも異なる。
一緒に生きることなど出来ない。そして七倍速でこの世界の方が早く時間が流れ、リア・ユートピアの“人間”の寿命が現世とさほど変わらないことを踏まえれば――普通に考えて、アーリアの方がずっと早くこの世を去ることになるのは明白である。
だから必ず、別れの時はやってくる。それもけして遠いものではないはずだ。自分達は、ずっと共に生きることなどできない。アーリアもきっと、そんなことはわかっているだろう。
だから、紫苑は。その最後の時が来る前に、それがはっきりと目の前に迫ってくる前に――後悔しない選択をしたいと、そう願うのである。
「……僕は、とても裕福で、幸せで、平凡な家庭に育った子供です。貴方やこの世界の人々と比べたら、きっと辛いことの多くを知らないことでしょう。もしかしたら、勇者の彼らよりも」
悩んだり、苦しんだことがないわけではない。
小柄で運動音痴であった紫苑は、いじめられることが少なくなかった。リレーなどでは全力で走ってもすぐに周りの子に追いつかれてしまうし、バレーボールをやればサーブさえもミスしてボールを落としてばかりの体たらく。運動は、どんなに頑張っても人並み程度にできるようにはならなかった。むしろ一生懸命やろうとすればするほど空回り、次第に先生やクラスメートから「やる気があるのか」と冷たい目を向けられる始末である。
ドンくさくてどれだけ走ってもみんなの背に届くことのない手。置いていかれてばかり、劣等感、劣等感――ただ紫苑が唯一人より優れていたことがあるとすれば、とにかく負けず嫌いであり、見た目に反して苛烈な本性を持っていたということだけであろうか。
運動能力には、どうしても限界があるらしい。ならば他のことで役に立てるということをみんなに見せるしかない。勉強ならば、やればやるだけ運動よりはマシな身につき方をするはず。成績で、そしてスポーツであっても作戦でみんなをサポートする。それできっと、馬鹿にしてきた連中を見返してやれるはずだと。
だから紫苑は、ひたすら机に向かった。そしてスポーツ大会などでは、他のチームを分析し、いわば主務やマネージャーのような立場に立つことで自らの地位を確立していったのである。紫苑を見下していた者達が、やがて頭を下げて頼ってくるようになるまで。
「ちょっとチビで、運動音痴だったせいでいじめられたことはあったけど、ただそれだけです。僕には、自分の運命を大人しく受け入れてやれるような器量なんてありませんでした。馬鹿にされたら、馬鹿にされたまま黙って下を向くなんて耐えられない性分でした。……僕が人より優れていることがあるとしたら、きっとそれだけです。負けず嫌いで、気が短い。それだけなんですよ、きっと」
「だから、作戦とか、そういうことで役に立とうとしたってわけか。……なんとなく納得したかも。君が今まで努力してきたことが、今の私達にこんなにも役立ってくれてる。君はこの世界でも、いつもやってきたことと同じことをやってくれてたわけだ?」
「そう仰ってくださるのは光栄ですけどね。流石に、人の生き死にを左右するような作戦を立てたのは初めてですよ。アヤナとの駆け引きだって、本当は緊張で倒れそうだったんですから」
「ええ?クラリスはそうは見えなかったって言ってたけどなあ……」
買いかぶりすぎだ、本当に。紫苑は苦笑するしかない。あのクラリスが、どうやらアーリアに対して特別な感情を抱いているらしいというのはわかっている。というか、アーリアは本人が気づいてないだけで滅茶苦茶モテているのは明白なのだ。先日助けた東の地のエリーゼにも随分好意を寄せられていた様子であるし。
彼女らが嫌な人間だったなら、自分も簡単に嫉妬することができたのに、と紫苑は思う。そうやって彼女らは戦士らしく真っ直ぐで、紫苑のことも対等に評価を下してくれるものだから憎むに憎めない。例えそれが、恋敵であったとしても、だ。
「僕はそんなかんじで、負けず嫌いで……欲しいものは、何が何でも手に入れてやるぞっていうタチでしたから。だからこそ……あの時だけは、耐えられないって思ったんでしょうね。僕の人生でたった一つ、どうしても手に入れないもの……いえ、取り戻せないものができてしまった瞬間でしたから」
小学生の時だ。一個上の上級生に、とても優しい近所のお兄さんがいた。勿論向こうも小学生なのでお兄さんなんて年ではないし、体格で言えば女の子で年下の紫苑ともさほど変わらないようなものであったが――とにかく勇敢で、喧嘩が強かったのである。どれほど体が大きなガキ大将にも果敢に向かって行き、信じたことは絶対に負けない性格だった。
そんな彼は、学校でも有名人だった。いじめられたらあの子に助けを求めればきっと助けてくれる、なんてことも言われるほどで。
みんなに尊敬と時に揶揄をも込めてこう呼ばれていたのだ――ヒーロー、と。
「一つ年上の、男の子でした。同じ小学校の上級生。正義感が強くて、みんなのヒーローと呼ばれていたその子は、両親がアメリカ人で。金髪で青い眼で……丁度、貴方のような外見だったんですよ。僕が自分を“僕”と言うようになったのも、男の子みたいな服装や言動を好むようになったのも、彼の影響です。……多分、あれが。僕の初恋だったんだと思います」
向日葵が咲いたように笑う子だった。
負けず嫌いで、けれど当時は悔しくて泣いてしまうことも少なくなかった紫苑のところに飛んできて、いつも慰めてくれたのが彼で。
頭を撫でる優しい手も、声も、今もしっかりと記憶の奥底に焼きついて離れずにいるのだ。イケメンだったのに全然気取らなくて、天真爛漫で優しい『お兄さん』を一体どうして、好きにならずにいられるというのだろう。
「泣いているといつも慰めに来てくれて、近所に住んでいたからというだけで僕には一際親切にしてくれて。淋しい時はいつも、僕の手を引いて歩いてくれました。……あの頃の僕は、当たり前のように信じていたんです。この手はいつまでも傍にあるって。ずっと手を繋いで歩いていけるはずだって」
幼かったとはいえ、愚かなことを信じていたものである。
自分達はいずれ大人になる。都合の良い神様がいないなら、ご都合主義の永遠なんて絶対にあるはずもなかったというのに。
「そんな優しかった彼は。ある時突然……僕の世界から、いなくなってしまいました。同じクラスの、いじめられていた男の子を助けようとして……いじめっ子達に川に突き落とされたその子を助けるために飛び込んで。その子は助かったけど彼は……大雨で増水した川に流されて、そのまま」
あれほど泣いた日々は、人生で一度もなかったと断言できる。
どんなに泣いても、叫んでも、いじめっ子達を責めても罵倒しても。失ったものは、けして帰ってくることなどない。一番欲しいものは、一番大切だったものは。あっさりと紫苑の手をすり抜けて失われてしまったのである。
「……その子の名前は、月岡有登」
そこまで語って、紫苑は伏せていた顔を上げ、アーリアを見た。
「その名前に、覚えはありませんか……“アーリア”」
「……っ」
アーリアの眼の奥が、揺らぐ。名前は、確かに似ていた。見た目も。それでも紫苑が当初、アーリアと有登が同一人物だと思わなかったのは、単純に年齢が合致しなかったからである。
この世界では、七倍速で時間が過ぎる。この世界での一週間が、現代日本の一日にあたる。
もし有登がアーリアとして転生、あるいは転移したのなら。彼は赤ん坊で生まれてもそのまま転移しても、生きていたとて相当な年齢になっているはずだ。少なくとも、こんなにも若いなんてことは有り得ないはずである。むしろ、こんな中途半端な年齢差であることがおかしい。当時一歳差だった自分達が、何故三つ程度の年の差で現在此処に存在していることになどなるのか。
だが、改めて冷静に考えるなら、もう一つ可能性もあったのではないか。向こうで死んですぐ、転生・転移したとは限らない。死んだのが八年前でも、その魂が飛んできたのが――この世界での五十六年前だと、何故言い切れる?
異世界転移・転生なんて。それそのものが理を破壊しかねない行為であることなど、勇者達の例で嫌というほど知っていたはずだというのに。
「……わからない」
アーリアは、首を振る。わからないんだよ、と申し訳なさそうに俯いて。
「私は、幼い子供の姿でこの世界で倒れていて、それを発見された……それは間違いないけど。そもそもこの世界に来たばかりの時の記憶もあやふやなんだ。ただ、覚えているのはこの世界での記憶だけ。この街でみんなに救われた時間だけ。……前世なんてものがあったのかどうか、それが君が言う『有登』であるのかなんて全然わかんないんだよ……」
「そう、ですか」
「でも。わからないけど……確かに、ちょっとおかしいとは思ってたんだ。何度か君達の世界に行くたび懐かしい気持ちになるのもそうだし……まだ学んでいないはずのモノの名前とか、言葉とか、何でだか分かることがいっぱいあったから、だから……」
でも、と。彼は再度頭を振って、泣きそうな顔になる。やっぱりダメだよ、と繰り返しながら。
「もし、私がその『有登』の転生者か、転移者であったとしても。……私はもう、有登じゃないよ。だって、有登だった記憶も人格も、私の中にはないんだから。だから……ごめん」
それは、十分に予想できた答えだった。ただ、何故だかアーリアの方が泣きそうで、悲しそうで。その方がひどく苦しくてたまらなくなるのである。
彼は、笑っていてくれる方がずっと似合っている。
そして自分が今彼の役に立ちたいのは、彼が有登に似ていたからというだけではなくて、彼が有登の転生かもしれないからではきっとなくて。
「謝らないでください、だって、僕は……」
言いかけた言葉は、中途半端に止まった。
その先を伝えることが、本当に自分にとって、あるいは彼にとっての『正しさ』に繋がるのか。暫しの逡巡が、二人の間の時間を少しだけ止めたのである。
目に見える答えに触れてしまうことに、どこかで怯えるかのように。



