アオハルな恋とウラらかな復讐

「ここは、どこだ……?」

葵の足元には鏡のような水面がどこまでも続いている。頭上には、真綿のような雲がたゆたう青空。水面に反射してまるで空の上に立っているかのような錯覚に陥る。
 終わりの見えない先に向かって一歩踏み出す。水面に小さな波紋が広がる。
 音のない静かな世界。
 現実とは思えない。
 だが、ここにいることに不思議と違和感がない。
 とにかく歩き続けなければ。
 何かに急かされるように歩を進める。
 ふと、少し先に煙のような人影が揺らめく。
 足を止めて目を凝らす。
 徐々にはっきりと人の形を成し、細身の女性が現れた。

「これ以上来ちゃだめ」

凛とした透き通る声に、葵は既視感を覚える。

「誰だ?」

女性はふわりと柔らかく微笑む。

「ありがとう。麗を守ってくれて」

その言葉に葵ははっとして、既視感の理由が腑に落ちた。

「……麗の、お袋?」

女性は泣くのを堪えるように無理やり笑みを浮かべる。

「あの子にはたくさん辛い思いをさせてしまった……。君までいなくなったら、あの子の心は壊れてしまう」
「俺が、いなくなる……?」

突然、胸元に強烈な痛みを覚え、膝を折る。

「そうだ。俺、撃たれて……」

いつの間にか目の前に来ていた女性に、頭を優しく撫でられる。

「お願い。あの子の傍にいてあげて」

葵は立ち上がり、女性をまじまじと見つめる。
 どことなく雰囲気が麗に似ている。
 意識が遠ざかる前に見た、涙を流しながら必死の形相で名前を呼ぶ麗の顔が思い浮かぶ。
 胸の奥がきゅっと締め付けられる。
 
 麗は、俺のだ。
 6年前からずっと。
 この先も変わらない。
 麗のいない未来なんてありえない。
 
 胸元がじんわりと熱を帯び、線香花火のような淡い光がパチパチと弾ける。

 この気持ちはきっと……。
 もう、目を逸らさない。

「約束する。俺は、麗の傍にいる」

女性がふふっと笑みをこぼす。

「お願いね」

葵が頷く。
 女性の姿が揺らめき、煙のように消える。
 途端に、水面が大きく揺れて波打ち、足元にぽっかり穴が開く。
 穴に吸い込まれるように、葵は音のない悲鳴を上げて落ちていった。

 
 麗は階段を駆け上がる。
 頭の中がぐしゃぐしゃで、脳みそがグワングワン揺さぶられているような不快感と痛みに襲われる。
 視界が歪む。
 足を踏み外しそうになるが、咄嗟に手すりを掴む。
 足を止めることなく、ひたすら上り続ける。

 私のせいだ。
 私を庇ったせいでアオが……。
 
 復讐を果たしても何も残らなかった。
 私はまた大切な人を失った。

 自分のせいで……。
 私が撃たれていればよかったのに……。

 私には、泣いてくれる家族はもういないんだから。
 私を愛してくれる人たちは、もういないんだから。

『麗はこの先、たくさんの人から愛される』

 父の言葉が耳の裏に響く。

 大熊から守るために鹿島家に閉じ込めた恒一。 
 優しく抱き締めてくれた紗季。
 私のやることを信じて背中を押してくれたハル。
 そして。
 命と引き換えに庇ってくれたアオ。

 私は、愛されていた……?
 だから、こんなに苦しいの?
 私のせいで、失ったから……。

 私がいる限り、また誰かが傷付く。
 私がいるから、みんな不幸になる。
 私がいなければ、もう誰も傷付かない。

 屋上の扉を開ける。
 激しい雨が降り注ぐ。
 一瞬にして全身が濡れる。
 フェンスに指をかけ、下を覗き込む。
 大通りを何台もの車が行き交う。
 歩道にはほとんど人の姿がない。

 きっと、組長も紗季さんもハルも、私のことを恨んでいる。 
 私には、生きている資格がない。
 
 強風が吹きすさぶ。
 
 ガシャン!

 風でフェンスの扉が開く。
 麗は吸い込まれるようその扉の向こうへ行く。
 遮るものは何もない狭い空間をゆっくり歩く。
 立ち止まり、コンクリートの地面を見下ろす。
 
 復讐をしたのに、大切な人を失った。
 今度は私が恨まれる。
 こんな人生、もう終わりにしたい。
 お父さん、お母さん。
 会いに行ってもいいかな……。

 宙に足を踏み出す。

「麗ちゃん!」

雨音に負けない晴の声が麗の耳に届く。
 麗は足を引っ込め、振り返る。晴が焦った顔でフェンス越しに叫ぶ。

「何やってるんだ! 早く戻って!」
「……いや」

麗は首を横に振る。

「麗ちゃん、自分が何をしようとしてるのか分かってるの?」

晴はフェンス伝いに開きっぱなしになっている扉の方に移動する。

「来ないで!」

晴は一瞬ためらうが、そのまま扉を通って少しずつ麗との距離を詰める。

「……私にはもう、生きている意味がない」

晴は強風に煽られそうになりながらも、麗に手が届く所まで近付く。

「じゃあ、麗ちゃんのために命を張ったアオはどうなるの?」

晴は感情を圧し殺した声で問いかける。 
 麗は目を見開き、顔を強ばらせる。

「アオは、自分の命より麗ちゃんが生きる未来を選んだんだ。アオの覚悟、無駄にしないで。アオのためにも……生きて!」

晴は麗に手を伸ばす。

「……私のこと、恨んでないの?」
「そんなわけない! アオが命懸けで守った麗ちゃんのこと、誰も恨まないよ。だから、こっちに来て」

晴が一歩近付き、麗の手を取る。
 麗は晴の方へ足を踏み出す。
 その時。
 突風が吹き、バランスが崩れる。

「あっ!」

体が宙に投げ出される。

 落ちる!

 目を閉じる。
 だが、落下の衝撃はこない。

「くっ! だ、大丈夫?」

晴がしっかりと麗の手を握って落下を防いだ。

「ハル……!」
「今、引き上げるから」

晴は片手でフェンスを掴んで踏ん張り、麗を引っ張り上げようとする。だが、雨で濡れているせいで手が滑りそうになり、力が入らない。

「くそっ」

歯を食い縛る。
 
「絶対に、助けるからっ!」

晴の顔が歪む。  

「手が!」

麗の瞳孔が開く。
 少しずつ晴の指の間から、麗の指が滑っていく。

 もう、無理かも……。

 繋いだ手が離れる。
 麗が目を固く閉じる。
 
「麗さん! 諦めちゃだめ!」

澪の声に目を開ける。
 澪が麗の手をしっかりと握っている。
 
「澪さん……」
「引っ張るわよ」
「う、うん」

澪と晴が麗を引っ張り上げる。 
 3人は縦に並んでフェンスの扉を通り、屋上の床に座り込んだ。 

「……よかった」

雨に濡れた前髪をかき上げ、麗を見つめる。

「私のせいであなたまで失ったら、私は……」

澪の呟きは雨音に掻き消される。
 次の瞬間、澪ははっとした顔で立ち上がり、両手を打ち鳴らした。

「あっ、そうだったわ! 伝えに来たのよ!」

晴が怪訝な顔をする。

「何を?」

澪が満面の笑みを浮かべる。

「鹿島くんの意識が戻ったの!」
「「えっ?!」」

麗と晴は声を揃えると、急いで階段を駆け下りた。
 
「アオ!」

病室に飛び込む。 
 葵が、ゆっくりと頭を麗の方に動かす。

「……麗」
「ア、アオ……!」

麗は点滴に繋がれた葵の手を握る。

「死んだかと思ったじゃん! ……よかった。生きてて、よかった」

ポタポタと温かい涙が麗の瞳から溢れ出す。

「……うるせえ。死なねえよ」

麗の頬を伝う涙をそっと拭う。

「泣き虫」

麗は葵の手を握りしめ、声を上げて泣きじゃくった。


 数日後。
 麗はひとりで、一般病棟に移った葵のお見舞いに向かった。
 
「アオ、入るよ」

個室の扉を開ける。だが、室内には誰もいない。

「えっ? アオ?!」

慌てて病室を飛び出そうとした時、何かにぶつかって倒れかける。

「あっ……!」

腕を引っ張られ、ぽすっと何かに顔がぶつかる。
 顔を上げると、すぐそこに葵の顔があった。
 麗の心臓が大きく跳ねる。

「あぶねーな」

葵から離れた麗は、驚いた表情で指を突きつける。

「な、何でもう動いてるの?」
「何でって、3日もあれば治るだろ」
「はあ? 心臓すれすれに撃たれたんだよ! しかも、一回心臓止まったんだから! 安静にしてないと!」

葵の腕を点滴ごと引いてベッドに座らせる。

「だーかーらー、もう平気だって」
「でも……」

病院着の胸元から、包帯が覗き見える。

「まだ、痛いでしょ。……何で庇ったの」

俯く麗の頭を葵が叩く。

「アホ」
「いたっ!」

麗は頭を押さえ、葵を軽く睨む。

「おまえの命は、おまえだけのものじゃない」

葵の鋭い眼差しに貫かれ、麗は息を呑む。
 病院の屋上でのこと、葵は誰かに聞いたのだろうか。
 
「勝手なことしないように、俺が見張っとかないとな。……約束しちまったし」
「約束? 誰と?」
「さあな」

葵は窓の外に広がる青空を見上げ、表情をやわらげる。
 点滴がついていない腕を思いっきり上に伸ばし、
胸を逸らして伸びをする。

「早く退院してえ。痛っ……!」

胸を押さえて顔をしかめる。
 麗は慌てて立ち上がる。

「だ、大丈夫?! うゎっ!」

その拍子に足をもつれさせ、葵の膝の上に倒れ込む。

「何してんだよ」

ふっと葵の口元から笑みが零れる。息がかかりそうなほど間近に葵の唇がある。麗の顔が真っ赤に染まっていく。

「ご、ごめん!」

急いで退こうとする。
 だが、葵に肩を掴まれ、起き上がることができない。

「何してるの! 離してよ。痛いんでしょ? 早く……」
「うるせえ」

葵の人差し指が、麗の唇に触れる。

「っ!?」

声が出せない。
 心臓がバクバク鳴って苦しい。

 ガタン!

 扉が開き、葵と麗は咄嗟に離れた。
 冷たい笑みを浮かべている晴が早足で近付いてくる。
 その後ろから温かい眼差しの澪が入ってくる。  

「アオ、何してるのさ」

葵を見下ろす晴がにっこり微笑む。

「おまえには関係ねえよ」

晴を睨む。
 晴は葵の耳元に口を寄せ、囁く。

「抜け駆けは許さないよ」
「ちっ」 

葵は舌打ちをすると枕に背を預け、ちらりと麗に視線を向ける。
 麗はさっと目を逸らす。 
 麗の肩に澪が手を添え、うっすら笑みを浮かべる。
 
「麗さん、独り占めはよくないわ」
「……はい?」

笑っていない目が怖い。鳥肌が止まらない。
 やっぱり晴と澪は似ている。
 
 不機嫌そうな顔の葵、冷たい笑顔で笑い合う晴と澪。   
 いつの間にか日常になっていた光景。
 窓から差し込む日差しに照らされ、キラキラ輝く。眩しさに目を細める。
 私の居場所はここ……?
 こんなに煌めいた場所にいていいの……?

「麗」

葵に名前を呼ばれる。
 発光しているように光り輝いて見え、麗は瞬きを繰り返す。
 
 いつもの葵じゃないみたい。
 どうしちゃったの……。

「来い」
「麗ちゃん、おいで」

葵と晴が手を差し出す。

 この手を、取っていいの?

 2人の手を前に、麗は躊躇する。
 恐る恐る手を伸ばす。
 だが、麗は途中で手を下ろし、2人から目を逸らした。
 

 ――その日の夜。

「麗ちゃん、ちょっといいかしら」

風呂上がりに部屋に戻ろうとしたところ、紗季に呼ばれて振り返る。

「何ですか?」
「ノンアルで女子会しない?」

紗季は梅の絵が描かれた缶を2つ持ち上げて見せる。

「……女子会?」

困惑する麗の背中を押してリビングに連れていかれる。
 テーブルの上にはチーズ、カルパス、サラミなどが並べられている。向かい合わせに座り、紗季はプルタブを開けて麗の缶にこつんとぶつける。
 
「カンパイ」
「カ、カンパイ」
 
慣れない単語に戸惑いながら、缶に口をつける。
 お酒じゃないのに、いけないことをしているような背徳感と一緒に、甘い炭酸が喉に流れ込む。 
 
「葵は元気だった?」

目の前に迫る葵の顔がふと思い浮かぶ。

「……あ、はい。もう動いてて、早く退院したいって言ってました」
「そう。うまく弾がそれたおかげね。運がよかったわ」
「そう、でしょうか。私を庇わなければ」
「違うわ」

紗季が麗の言葉を遮る。

「この世界は危険と隣り合わせよ。トップは命懸けで組を守るの。“家族”を守るのは当たり前のことなのよ」
「家族、ですか?」
「組員は家族のようなものだから。葵は夫に似てるのよ。だから命を懸けてあなたを守るのは、葵にとっては当然のことなんじゃないかしら」

家族……。
 アオは私を、そう思ってくれていたのかな。
 
「麗ちゃんは葵のことどう思ってる?」

興味津々の眼差しを向けられ、麗は困惑する。

「ど、どうって聞かれても、アオはアオだし、下僕とか言われてたし。……でも、最近はなんか変な感じで、やたら距離が近いっていうか」
「あらあら、そうなの? もっと詳しく聞きたいわあ」
「えっと、その……」

にやにやとした笑みを向けられ、麗は缶をぐいっと傾けて返事を誤魔化す。

「麗ちゃん、かわいい~。青春ねえ」

ふふふと笑う紗季は、両手に包み込んだ缶に目を落とす。

「ねえ、麗ちゃん」

紗季の瞳がきらりと光る。
 麗は真剣な紗季の様子に、缶を置いて背筋を伸ばす。

「私たちと本当の家族にならない?」
「え?」
「麗ちゃんを養子にしたいと思ってるの」

養子?
 本当の、家族?
 私が……?

 麗の頭の中が真っ白になった――。