静寂が場を支配する。
麗は顔を上げる。
葵が胸を押さえて顔をしかめている。
指の隙間から赤いものが滲み、白いシャツを染めていく。
「ア、アオ……?」
麗の声が震える。
「無事、か」
葵がゆっくり崩れ落ちる。
「うそ……」
麗は瞳を見開く。
「アオ!」
晴が駆け寄り、葵の胸を押さえる。だが、晴の手は瞬時に真っ赤に染まる。
葵の顔から血の気が引いていく。
「アオ、アオ! 何で……!」
麗は晴の手の上に自分の手を被せる。だが、血が溢れて止まらない。
浴室で見た母の姿がよぎる。
「いやああぁぁ!」
麗の悲痛な叫びと共に、涙が葵の頬に落ちる。
「大熊!」
恒一が大熊を殴り飛ばし、クロサギが捕らえる。
それを皮切りに、フクロウや鹿島の組員たちが大熊の組員を取り押さえる。
澪は呆然と立ち尽くす。
——理事長室。
画面越しに、倒れる葵を見つめる紗季の唇が戦慄く。
「……葵?」
次郎は固まり、言葉を失う。
目白はインカムに向かって叫んだ。
「早く病院に!」
手術室の扉の前で、麗は祈るように両手を組み合わせ、瞳を閉じる。
その隣で晴は何も言わず寄り添う。
「葵は……?」
顔面蒼白の紗季が、恒一に肩を支えられながら歩いてくる。
晴は無言で手術室を差し、目を伏せる。
「何でこんなことに……!」
顔を覆う紗季を恒一は抱き締める。
沈黙が続く。
重苦しい空気を破るように手術室の扉が開き、血相を変えた看護師が飛び出してきた。
「ご家族の方ですか? 輸血用の血が不足しています。同じ血液型の方、いらっしゃいませんか?」
「俺と倅だ」
恒一が自分と晴を差す。看護師は少し安堵する。
「協力してください」
「ああ」
「はい」
恒一と晴は頷き、看護師の後について処置室に入っていく。
紗季は廊下の長椅子に座り、項垂れる。
「危険だって分かっていたのに……。私が逃げてないで、もっと早く動いていればこんなことには……」
「紗季さんのせいじゃありません。私を庇ったから葵は……」
握りしめた両手に涙が落ちる。
嗚咽を圧し殺し、声を振り絞る。
「ごめん、なさい……っ!」
唇を噛み締めて深く頭を下げる。
「麗ちゃん……」
大粒の涙を溜めた紗季は、震える手で麗の頭を撫でる。
「謝らないで。きっと葵はあなたを助けられなかったら、後悔していたはずよ。……だから、あの子のためにも自分を責めないで」
頬を濡らした紗季がそっと麗を包み込む。
優しくしないで……。
罵られるよりも苦しい。
私のせいなのに。
私が撃たれるはずだったのに。
胸を押さえて倒れる葵が脳裏に焼き付いている。
どくどくと溢れ出すぬめった血の感覚が残っている。
何で私なんか庇ったの。
胸を突き刺す苦しみを吐き出したい。
声を上げて泣きたくなる。
だけど、私にはそんな資格ない。
今一番苦しんでいるのは、葵だから。
『麗』
名前を呼んでふっと笑みを浮かべる葵の顔が浮かぶ。
お願い。
死なないで……。
その頃。
晴と恒一は処置室から出て、暗い廊下に出た。
急いで手術室に戻る看護師の後に晴がついていく。だが、恒一は出入口がある方へ歩を進める。
「父さん、戻らないの?」
恒一は足を止め、首だけ振り向く。肩にかけたジャケットがわずかに揺れる。
「ここにいて何ができる。……晴」
恒一の鋭い眼光が晴を貫く。
「……覚悟しておけ」
「なんでそんなこと言うんだよ。アオのこと信じてないわけ?!」
「なわけねえだろ!」
ドスの効いた声が重く響く。
晴は体を強張らせ、ひゅっと息を呑む。
「あいつは死なねえよ。そんなやわに育てた覚えはねえ」
恒一は晴に背を向ける。
「だがな、最悪を見据えて先に手を打つ。それが組長(俺)のやり方だ」
ジャケットを羽織り、低く呟く。
「あいつが帰ってくる場所を守るのも、俺の役目だ」
恒一の広い背中は闇に紛れ、すぐに見えなくなる。
「かっこつけすぎでしょ。……僕は僕のできることをするよ」
晴は壁に背を預け、スマホ画面の上に指を走らせた。
手術中の明かりが消える。
既に日をまたいで数時間が経過している。
麗、紗季、晴は神妙な面持ちで、手術室から出てきた医師と向き合う。
「手術は、成功です」
紗季が口元を押さえ、安堵の表情を浮かべる。
「ありがとうございます!」
麗も胸を撫で下ろし、息を吐き出す。
だが、医師の表情は固い。
「ですが、予断を許さない状況です。集中治療室で様子を見ます」
「そんな……。先生、どうか息子を助けてください。お願いします」
紗季の肩が震える。
「……最善を尽くします」
決まり文句を口にすると、医師は踵を返した。
集中治療室で眠る葵を、麗と紗季は廊下から見つめる。心電図の機械音や忙しなく動き回る看護師たちの足音が窓越しに聞こえる。
麗は窓に手のひらをつける。
目の前にいるのに触れられない距離がもどかしい。
「葵……」
紗季がふらつき、麗と晴が慌てて支える。
「大丈夫ですか?」
「母さん、一旦家に戻って休もう。アオなら大丈夫。きっとすぐ目を覚ますよ」
「……そう、ね」
力なく頷く紗季の肩を晴はひとりで支える。
「麗ちゃんも顔色悪いよ。一緒に戻ろう」
「私はここで待ってる。紗季さんのことお願い。アオの意識が戻ったら連絡するから」
「……わかった。無理しないで」
心配そうな面持ちの晴に麗は頷き、葵に目を向ける。
葵の目蓋は固く閉じられたままだ。
麗はジーンズのポケットから折り畳まれた家族写真を取り出し、指で撫でる。
「お父さん、お母さん、アオを助けて。お願い……」
ふと、フクロウから届いたメールを思い出し、スマホを手に取る。
お父さんは、私に何を残してくれたんだろう。
アオの目が覚めて元気になったら、教えてあげようかな。
添付のURLをタップし、フクロウが送ってくれた麗へのフォルダーを閲覧するためのパスワードを入力する。
ロックが解錠され、ひとつの動画ファイルが表示される。
「なんだろう?」
ファイルをタップする。
再生が始まってすぐ麗は驚愕し、スマホを取り落としそうになった。
画面の向こうには、経営していた喫茶店のカウンターで、自分と同じ薄茶色の瞳で微笑む父の姿があった。
「お、お父さん……」
『麗、これを見てる頃には、お父さんは傍にいないかもしれない。……ごめんな』
眉を下げる父の顔が涙で滲む。
写真の顔を塗り潰しても忘れられなかった父の顔は、記憶よりもやつれて見える。
『でも、お父さんは必ず麗とお母さんのところに戻るから。それまで待っていてほしい』
父は一度言葉を切る。引き結んだ唇が一瞬歪む。
『お父さんは傍にいられないけど、麗はひとりじゃない。お母さんもいる。助けてくれる人がたくさんいる。前にも言っただろう? 麗の瞳の色は、人から愛される証だって。麗はこの先、たくさんの人から愛される。だから麗を大切にしてくれる人たちと一緒に、生きてほしい』
麗と同じ薄茶色の瞳が潤む。
震えそうになる唇を噛み締め、ゆっくり瞬きをする。
『もちろん、お父さんとお母さんが一番麗のことを愛しているよ。何があっても、それは変わらない』
真剣な眼差しの奥に温かい光が宿る。
『……麗、大好きだよ』
その言葉を最後に動画はぷつりと途切れた。
……嘘つき。
戻ってこなかったくせに。
この瞳は人から愛される証なんかじゃない。
私は誰からも愛されず、ひとりでずっと耐えてきた。
でも……。
全てを知って、元凶の大熊への復讐を果たした今なら分かる。
私はひとりじゃない。
お父さんとお母さんが縁を紡いだ人たちに助けられ、守られ、愛されていた。
なのに、そんなことまったく気付かなかった。
復讐を支えに生きてきた結果、葵の命を危険に晒した。
お父さんとお母さんのために、大熊の全てを奪って復讐を果たしたのに、どうしてこんなことに……。
「お父さん、私、どうしたらいいの……。会いたいよ、お父さん……」
家族写真を両手で握りしめる。
冷たい涙が零れ、塗りつぶされた父の顔の上に落ちた。涙の跡がくっきりと残る。
堪えていたものがとうとう押さえきれなくなり、麗はうずくまって声を張り上げた。
「うわあぁぁ」
誰もいない白一色の廊下に、哀切な叫びが虚しく吸い込まれた。
窓の外はしとしとと雨が降り続いている。
とっくに太陽が昇っているはずなのに、雨雲のせいで薄暗く時間が読めない。
麗は憔悴しきった顔で、ベッドの上で眠る葵を見つめる。
看護師からわずかな時間だけ面会が許されたのだ。
人工呼吸器をつけ、管に繋がれている葵の瞼は固く閉じられたまま、目を覚ます気配は一向にない。
「アオ……」
葵の手に触れようとした時、病室の扉が開き、麗は咄嗟に手を引っ込めた。
晴に続いて澪が静かに入ってくる。
「麗ちゃん、アオは?」
晴の問いかけに麗は首を振る。
澪が葵の顔を覗き込み、眉尻を下げる。
「私のせいであなたたちを危険な目に遭わせてしまったわ。……ごめんなさい」
消え入るような声で頭を下げる。
「澪さんを止められてよかったです。あのまま何もしないでいたら、私は絶対後悔していました」
顔を上げた澪は、澄んだ麗の瞳を直視できず、目を逸らす。
「麗ちゃんは優しすぎるよ。あんたの勝手な行動のせいでこんなことになったんだ。僕は許してないから」
肩をすくめる晴は、冷淡な口調で澪をなじる。
澪は縮こまって青白い顔で俯く。
「麗ちゃん、これ見て」
晴がスマホの画面を麗に見せる。
大熊逮捕のネット記事、ニュース動画、SNSでの反応など、大熊に関する情報がネット上で炎上している。
「もうここまで広がったの?」
「牧野先輩にも協力してもらったんだ」
「牧野先輩に?」
「大熊関連の記事とかSNSの投稿を片っ端から共有して、拡散してもらったんだ」
「いつの間に……」
晴は口の端をめくり、人差し指を顔の前に立てる。
「他にも色々やったけど、あとはヒミツ」
冷ややかな笑みに麗の腕に鳥肌が立つ。
晴はすっと笑みを消し、不安気な顔を葵に向ける。
「アオのことは公にならないよう、父さんたちが手を回してた。鹿島組に警察が介入するのを避けるためだって。でも、多分それは建前」
「どういうこと?」
「公になれば警察だけじゃなくて、マスコミが押しかけてくるでしょ。そうなったらアオが戻ってきた時に、すぐ日常に戻れない。本当はアオを撃ったことでも大熊は裁かれるべきだけど、アオのために父さんはもみ消したんだ」
無骨な恒一の親心に、麗の胸は熱くなる。
アオ、みんなアオが戻ってくるのを待ってるよ。
だから早く、目を覚まして。
ピーッ、ピーッ。
心電図の波形が激しく乱れ、モニターの警告音が鋭く鳴り始める。
「アオ! アオ!」
麗は必死に葵に呼びかけるが、警告音は止まらない。
すぐに看護師と医師が飛び込んできて、麗たちは廊下に出される。
麗は窓に顔を近づける。不安と焦燥が涙と一緒に溢れ出す。
「どうしよう、アオが……」
晴が麗を落ち着かせるように、力強い口調で言い含める。
「大丈夫だよ、麗ちゃん。アオは絶対、大丈夫」
澪が麗の背中を優しくさする。
「そうよ、麗さん。きっと大丈夫よ」
麗は涙を拭い、晴と澪に頷く。
ピーッ……。
心電図が一本の線になる。
「心臓マッサージだ!」
医師の怒号が飛ぶ。
何度も試みるが、心電図に変化はない。
麗は窓に張り付き、騒然とする室内を凝視する。
病室ではすぐさま電気ショックが行われる。
「もう一回!」
葵の体がベッドの上で人形のように跳ねる。
「アオ、お願い……!」
麗は両手を握り合わせ、目を閉じる。
「……反応ありません」
看護師の声が、ガラス越しにかすかに届く。
医師の手が、一瞬止まった。
病室が息を呑んだように静まり返る。
「うそ……」
麗の膝から力が抜けた——。
麗は顔を上げる。
葵が胸を押さえて顔をしかめている。
指の隙間から赤いものが滲み、白いシャツを染めていく。
「ア、アオ……?」
麗の声が震える。
「無事、か」
葵がゆっくり崩れ落ちる。
「うそ……」
麗は瞳を見開く。
「アオ!」
晴が駆け寄り、葵の胸を押さえる。だが、晴の手は瞬時に真っ赤に染まる。
葵の顔から血の気が引いていく。
「アオ、アオ! 何で……!」
麗は晴の手の上に自分の手を被せる。だが、血が溢れて止まらない。
浴室で見た母の姿がよぎる。
「いやああぁぁ!」
麗の悲痛な叫びと共に、涙が葵の頬に落ちる。
「大熊!」
恒一が大熊を殴り飛ばし、クロサギが捕らえる。
それを皮切りに、フクロウや鹿島の組員たちが大熊の組員を取り押さえる。
澪は呆然と立ち尽くす。
——理事長室。
画面越しに、倒れる葵を見つめる紗季の唇が戦慄く。
「……葵?」
次郎は固まり、言葉を失う。
目白はインカムに向かって叫んだ。
「早く病院に!」
手術室の扉の前で、麗は祈るように両手を組み合わせ、瞳を閉じる。
その隣で晴は何も言わず寄り添う。
「葵は……?」
顔面蒼白の紗季が、恒一に肩を支えられながら歩いてくる。
晴は無言で手術室を差し、目を伏せる。
「何でこんなことに……!」
顔を覆う紗季を恒一は抱き締める。
沈黙が続く。
重苦しい空気を破るように手術室の扉が開き、血相を変えた看護師が飛び出してきた。
「ご家族の方ですか? 輸血用の血が不足しています。同じ血液型の方、いらっしゃいませんか?」
「俺と倅だ」
恒一が自分と晴を差す。看護師は少し安堵する。
「協力してください」
「ああ」
「はい」
恒一と晴は頷き、看護師の後について処置室に入っていく。
紗季は廊下の長椅子に座り、項垂れる。
「危険だって分かっていたのに……。私が逃げてないで、もっと早く動いていればこんなことには……」
「紗季さんのせいじゃありません。私を庇ったから葵は……」
握りしめた両手に涙が落ちる。
嗚咽を圧し殺し、声を振り絞る。
「ごめん、なさい……っ!」
唇を噛み締めて深く頭を下げる。
「麗ちゃん……」
大粒の涙を溜めた紗季は、震える手で麗の頭を撫でる。
「謝らないで。きっと葵はあなたを助けられなかったら、後悔していたはずよ。……だから、あの子のためにも自分を責めないで」
頬を濡らした紗季がそっと麗を包み込む。
優しくしないで……。
罵られるよりも苦しい。
私のせいなのに。
私が撃たれるはずだったのに。
胸を押さえて倒れる葵が脳裏に焼き付いている。
どくどくと溢れ出すぬめった血の感覚が残っている。
何で私なんか庇ったの。
胸を突き刺す苦しみを吐き出したい。
声を上げて泣きたくなる。
だけど、私にはそんな資格ない。
今一番苦しんでいるのは、葵だから。
『麗』
名前を呼んでふっと笑みを浮かべる葵の顔が浮かぶ。
お願い。
死なないで……。
その頃。
晴と恒一は処置室から出て、暗い廊下に出た。
急いで手術室に戻る看護師の後に晴がついていく。だが、恒一は出入口がある方へ歩を進める。
「父さん、戻らないの?」
恒一は足を止め、首だけ振り向く。肩にかけたジャケットがわずかに揺れる。
「ここにいて何ができる。……晴」
恒一の鋭い眼光が晴を貫く。
「……覚悟しておけ」
「なんでそんなこと言うんだよ。アオのこと信じてないわけ?!」
「なわけねえだろ!」
ドスの効いた声が重く響く。
晴は体を強張らせ、ひゅっと息を呑む。
「あいつは死なねえよ。そんなやわに育てた覚えはねえ」
恒一は晴に背を向ける。
「だがな、最悪を見据えて先に手を打つ。それが組長(俺)のやり方だ」
ジャケットを羽織り、低く呟く。
「あいつが帰ってくる場所を守るのも、俺の役目だ」
恒一の広い背中は闇に紛れ、すぐに見えなくなる。
「かっこつけすぎでしょ。……僕は僕のできることをするよ」
晴は壁に背を預け、スマホ画面の上に指を走らせた。
手術中の明かりが消える。
既に日をまたいで数時間が経過している。
麗、紗季、晴は神妙な面持ちで、手術室から出てきた医師と向き合う。
「手術は、成功です」
紗季が口元を押さえ、安堵の表情を浮かべる。
「ありがとうございます!」
麗も胸を撫で下ろし、息を吐き出す。
だが、医師の表情は固い。
「ですが、予断を許さない状況です。集中治療室で様子を見ます」
「そんな……。先生、どうか息子を助けてください。お願いします」
紗季の肩が震える。
「……最善を尽くします」
決まり文句を口にすると、医師は踵を返した。
集中治療室で眠る葵を、麗と紗季は廊下から見つめる。心電図の機械音や忙しなく動き回る看護師たちの足音が窓越しに聞こえる。
麗は窓に手のひらをつける。
目の前にいるのに触れられない距離がもどかしい。
「葵……」
紗季がふらつき、麗と晴が慌てて支える。
「大丈夫ですか?」
「母さん、一旦家に戻って休もう。アオなら大丈夫。きっとすぐ目を覚ますよ」
「……そう、ね」
力なく頷く紗季の肩を晴はひとりで支える。
「麗ちゃんも顔色悪いよ。一緒に戻ろう」
「私はここで待ってる。紗季さんのことお願い。アオの意識が戻ったら連絡するから」
「……わかった。無理しないで」
心配そうな面持ちの晴に麗は頷き、葵に目を向ける。
葵の目蓋は固く閉じられたままだ。
麗はジーンズのポケットから折り畳まれた家族写真を取り出し、指で撫でる。
「お父さん、お母さん、アオを助けて。お願い……」
ふと、フクロウから届いたメールを思い出し、スマホを手に取る。
お父さんは、私に何を残してくれたんだろう。
アオの目が覚めて元気になったら、教えてあげようかな。
添付のURLをタップし、フクロウが送ってくれた麗へのフォルダーを閲覧するためのパスワードを入力する。
ロックが解錠され、ひとつの動画ファイルが表示される。
「なんだろう?」
ファイルをタップする。
再生が始まってすぐ麗は驚愕し、スマホを取り落としそうになった。
画面の向こうには、経営していた喫茶店のカウンターで、自分と同じ薄茶色の瞳で微笑む父の姿があった。
「お、お父さん……」
『麗、これを見てる頃には、お父さんは傍にいないかもしれない。……ごめんな』
眉を下げる父の顔が涙で滲む。
写真の顔を塗り潰しても忘れられなかった父の顔は、記憶よりもやつれて見える。
『でも、お父さんは必ず麗とお母さんのところに戻るから。それまで待っていてほしい』
父は一度言葉を切る。引き結んだ唇が一瞬歪む。
『お父さんは傍にいられないけど、麗はひとりじゃない。お母さんもいる。助けてくれる人がたくさんいる。前にも言っただろう? 麗の瞳の色は、人から愛される証だって。麗はこの先、たくさんの人から愛される。だから麗を大切にしてくれる人たちと一緒に、生きてほしい』
麗と同じ薄茶色の瞳が潤む。
震えそうになる唇を噛み締め、ゆっくり瞬きをする。
『もちろん、お父さんとお母さんが一番麗のことを愛しているよ。何があっても、それは変わらない』
真剣な眼差しの奥に温かい光が宿る。
『……麗、大好きだよ』
その言葉を最後に動画はぷつりと途切れた。
……嘘つき。
戻ってこなかったくせに。
この瞳は人から愛される証なんかじゃない。
私は誰からも愛されず、ひとりでずっと耐えてきた。
でも……。
全てを知って、元凶の大熊への復讐を果たした今なら分かる。
私はひとりじゃない。
お父さんとお母さんが縁を紡いだ人たちに助けられ、守られ、愛されていた。
なのに、そんなことまったく気付かなかった。
復讐を支えに生きてきた結果、葵の命を危険に晒した。
お父さんとお母さんのために、大熊の全てを奪って復讐を果たしたのに、どうしてこんなことに……。
「お父さん、私、どうしたらいいの……。会いたいよ、お父さん……」
家族写真を両手で握りしめる。
冷たい涙が零れ、塗りつぶされた父の顔の上に落ちた。涙の跡がくっきりと残る。
堪えていたものがとうとう押さえきれなくなり、麗はうずくまって声を張り上げた。
「うわあぁぁ」
誰もいない白一色の廊下に、哀切な叫びが虚しく吸い込まれた。
窓の外はしとしとと雨が降り続いている。
とっくに太陽が昇っているはずなのに、雨雲のせいで薄暗く時間が読めない。
麗は憔悴しきった顔で、ベッドの上で眠る葵を見つめる。
看護師からわずかな時間だけ面会が許されたのだ。
人工呼吸器をつけ、管に繋がれている葵の瞼は固く閉じられたまま、目を覚ます気配は一向にない。
「アオ……」
葵の手に触れようとした時、病室の扉が開き、麗は咄嗟に手を引っ込めた。
晴に続いて澪が静かに入ってくる。
「麗ちゃん、アオは?」
晴の問いかけに麗は首を振る。
澪が葵の顔を覗き込み、眉尻を下げる。
「私のせいであなたたちを危険な目に遭わせてしまったわ。……ごめんなさい」
消え入るような声で頭を下げる。
「澪さんを止められてよかったです。あのまま何もしないでいたら、私は絶対後悔していました」
顔を上げた澪は、澄んだ麗の瞳を直視できず、目を逸らす。
「麗ちゃんは優しすぎるよ。あんたの勝手な行動のせいでこんなことになったんだ。僕は許してないから」
肩をすくめる晴は、冷淡な口調で澪をなじる。
澪は縮こまって青白い顔で俯く。
「麗ちゃん、これ見て」
晴がスマホの画面を麗に見せる。
大熊逮捕のネット記事、ニュース動画、SNSでの反応など、大熊に関する情報がネット上で炎上している。
「もうここまで広がったの?」
「牧野先輩にも協力してもらったんだ」
「牧野先輩に?」
「大熊関連の記事とかSNSの投稿を片っ端から共有して、拡散してもらったんだ」
「いつの間に……」
晴は口の端をめくり、人差し指を顔の前に立てる。
「他にも色々やったけど、あとはヒミツ」
冷ややかな笑みに麗の腕に鳥肌が立つ。
晴はすっと笑みを消し、不安気な顔を葵に向ける。
「アオのことは公にならないよう、父さんたちが手を回してた。鹿島組に警察が介入するのを避けるためだって。でも、多分それは建前」
「どういうこと?」
「公になれば警察だけじゃなくて、マスコミが押しかけてくるでしょ。そうなったらアオが戻ってきた時に、すぐ日常に戻れない。本当はアオを撃ったことでも大熊は裁かれるべきだけど、アオのために父さんはもみ消したんだ」
無骨な恒一の親心に、麗の胸は熱くなる。
アオ、みんなアオが戻ってくるのを待ってるよ。
だから早く、目を覚まして。
ピーッ、ピーッ。
心電図の波形が激しく乱れ、モニターの警告音が鋭く鳴り始める。
「アオ! アオ!」
麗は必死に葵に呼びかけるが、警告音は止まらない。
すぐに看護師と医師が飛び込んできて、麗たちは廊下に出される。
麗は窓に顔を近づける。不安と焦燥が涙と一緒に溢れ出す。
「どうしよう、アオが……」
晴が麗を落ち着かせるように、力強い口調で言い含める。
「大丈夫だよ、麗ちゃん。アオは絶対、大丈夫」
澪が麗の背中を優しくさする。
「そうよ、麗さん。きっと大丈夫よ」
麗は涙を拭い、晴と澪に頷く。
ピーッ……。
心電図が一本の線になる。
「心臓マッサージだ!」
医師の怒号が飛ぶ。
何度も試みるが、心電図に変化はない。
麗は窓に張り付き、騒然とする室内を凝視する。
病室ではすぐさま電気ショックが行われる。
「もう一回!」
葵の体がベッドの上で人形のように跳ねる。
「アオ、お願い……!」
麗は両手を握り合わせ、目を閉じる。
「……反応ありません」
看護師の声が、ガラス越しにかすかに届く。
医師の手が、一瞬止まった。
病室が息を呑んだように静まり返る。
「うそ……」
麗の膝から力が抜けた——。


