結局、また戻ってきてしまった。
麗は鹿島家の門の前で足を止める。
紗季が振り返り、麗の手を取る。その手は少し汗ばんでいる。
「行きましょう」
「……はい」
玄関を開けると、組員が驚愕の顔で紗季と麗を見て、廊下の奥に駆け出した。
すぐに騒然とし始め、複数の足音が玄関に向かってくる。
「紗季!」
恒一が紗季に駆け寄り、目の前で立ち止まる。
「……ただいま」
紗季がはにかむと、恒一は強く抱き締める。
その後ろから駆けてきた葵が、紗季と麗を交互に見て眉をひそめる。
「麗が何でお袋と……」
麗は、心臓がチクリと刺されたみたいに痛み、葵から目を逸らす。
「母さん……」
晴が呆然と紗季を見つめる。
「晴? こんなに大きくなって」
紗季は晴に手を伸ばし、頬を優しく撫でた。
泣きそうな顔の晴はうつむき、肩を震わせる。
「ごめんね。帰ってくるのがこんなに遅くなっちゃって……」
紗季は晴の肩を抱き、嗚咽をもらす。
「今さら何なんだよ」
葵が冷めた目を向ける。
紗季は涙を拭い、葵に手を伸ばす。
「葵……」
葵は紗季の手を避け、舌打ちをする。
「そうね。今さら、よね」
紗季は手を胸の前で組み、うつむく。
恒一が眉間に皺を寄せて葵の胸ぐらを掴む。
「何も知らねえくせに生意気言ってんじゃねえ」
「じゃあ、教えろよ! 何隠してんだよ! 麗の親父のことも、大熊のことも、何で俺たちには黙ってた!」
葵の怒声が響く。
恒一は手を離し、拳を握りしめる。
「……話してやる。ただし、聞いたからには覚悟しろよ」
廊下の隅で静かに成り行きを見守っていた澪へ、恒一が視線を向ける。
「大熊の娘」
澪は恒一に会釈をし、横目で麗を見て微笑んだ。
澪さんが、何でここに?
「とっとと帰れ。近い内に話をつける」
「はい。では、また宜しくお願いします」
一礼すると、澪は静かに去っていった。
リビングルームのソファに並んで座る恒一と紗季、その向かいに葵と晴が横並びに座っている。麗は恒一に命じられ、人数分のコーヒーを淹れてテーブルにカップを置く。
紗季はコーヒーを一口すすると、ふうっと息をもらす。
「懐かしい。……啓介さんの淹れるコーヒーと同じだわ」
「啓介って、お袋の浮気相手かよ」
顔をしかめる葵を、恒一が鋭利な眼差しで射抜く。
「勘違いしてんじゃねえぞ。紗季が浮気するわけねえだろ」
恒一が紗季の肩を抱き寄せる。紗季はやんわりと恒一の
手をどかし、葵と晴に優しい眼差しを向けた。
「きちんと説明するわ。麗ちゃん、ご両親の話、この子達にしてもいいかしら?」
麗は頷き、葵と晴をまっすぐ見据える。
「紗季さんは私の両親を助けようとしてくれたの。浮気なんかじゃない。それに、アオとハルを捨てたわけでもない。戻れない事情があったの。でも、私を助けるために紗季さんは戻ってきたの」
麗は手の中に握りしめているUSBメモリに目を落とす。
「……はあ?」
「母さんと麗ちゃんの両親、どういう関係なの?」
紗季は麗に話したことを2人にも話して聞かせた。
麗は横で聞きながら、コーヒーと一緒に涙を飲み込んだ。
紗季の話が終わる頃には、部屋は静まり返っていた。
葵と晴は口を引き結ぶ。すぐには言葉を発せない。
新しい真実を受け止めるにはあまりにも重すぎた。
その沈黙だけが、この夜の答えだった――。
両親と鹿島家との繋がりがこんなにも深かったことに、麗はまだ気持ちの整理がつかない。
胸の中に充満している黒々とした靄がうまく吐き出せない。
組長も紗季さんも、お父さんとお母さんを守ろうとしてくれた。
そして私のことも――。
この6年間、私にとって鹿島家は自由を奪う鳥籠だった。
下僕扱いされて、家政婦のように家事をして、学校にも行けず、この家から出ることは許されなかった。
だけど、私は守られていた……。
「誰も守ってほしいなんて言ってないのに――」
麗は頭まで布団を被る。
布団が小刻みに震える。
押し殺した声が暗闇に小さく漏れる。
カーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚めた麗は、時計を見て飛び起きる。
「もう6時半!」
急いで制服に着替えて部屋を飛び出す。
廊下に出て足を止める。
「……出られた。監視もいない」
鍵は外され、ドアの前には誰もいない。
麗は制服のスカートを握りしめる。
「何で着替えちゃったんだろ。学校、行ってもいいのかな。……あれ、この匂い?」
ふと、どこからか卵焼きの匂いが漂ってくる。
ピーッ、ピーッ、ピーッ。
洗濯機から、洗濯が終了する音も聞こえる。
「朝食も洗濯も、誰かがしてくれてる?」
麗は足早にリビングルームに向かい、キッチンを覗く。
フライパンを握って卵焼きを作っている紗季の背中が目に入る。母の背中と重なり、麗は思わず手を伸ばす。
お母さん……。
「あら、麗ちゃん。おはよう」
紗季が振り返り、麗はさっと手を下ろす。
「……おはようございます」
「もう少しでできるから待っててね」
「いえ、手伝います」
「いいのよ。学校に行く準備はできてる?」
「学校、行ってもいいんでしょうか」
紗季は火を止め、麗の手をそっと包み込む。
「もちろんよ。……麗ちゃんがうちに来てからのこと、夫から聞いたわ。私がいなかったせいで、不自由な思いをさせてしまったわね。本当にごめんなさい」
紗季の黒々とした大きな瞳が揺れる。
今更、謝られても……。
麗は俯き、唇を噛み締める。
声を出したら、胸の奥に押し込み切れない毒々しい思いが全部吐き出されてしまいそうだ。
「辛かったわよね」
紗季の腕が、ふわりと麗を抱き締める。
……温かい。
鼻の奥がつんとして喉が締まる。
優しさが苦しい。
「こんな可愛い麗ちゃんを下僕にしていじめて、閉じ込めるなんて」
紗季が麗の頭をそっと撫で、柔らかい笑みを浮かべる。
「本当、うちの男どもは最低のクズ野郎よね。たっぷりお灸を据えておいたわ」
フフフフフ、とにっこり微笑むが、目は笑っていない。
麗の背筋がぞくりと凍り付く。
理事長そっくりだ。
そういえば理事長と紗季さんは姉弟だった……。
「母さん、麗ちゃん、おはよう」
リビングに入ってきた晴が笑顔で手を振る。
プリンススマイルとは少し違う、柔らかい笑みだ。
続けざまに葵が現れ、ぶっきらぼうな態度で椅子に座る。
最後に組長も現れ、葵と晴の向かいに座る。
全員が食卓についたのはこの6年で初めてのことだ。麗は見慣れない光景に唖然とする。
「さあ、ご飯にしましょう。麗ちゃんも座って」
「あ、はい」
椅子に座って鹿島家が勢ぞろいした食卓を見回す。
いつもの場所なのに、全然違って見える。
組長と紗季がいて、葵と晴がいる。
鹿島家の”家族の輪”ができあがっている。
そこにいる自分は異質。
やっぱりここに私の居場所はない。
「食わねえのか? もらうぞ」
葵の箸が麗の目の前にある卵焼きに伸びる。
「だめ!」
咄嗟に葵の手を叩き、卵焼き泥棒を阻止する。
「葵、まだお灸が足りなかったみたいね」
笑顔とは裏腹な刺々しい紗季の声に、葵は手を引っ込める。そそくさと皿を重ねて台所に運び、リビングルームを出ていった。
「アオなりに心配してるんだよ」
晴がくすっと笑う。
「え?……そうなのかな」
麗は葵が出ていった方を見て首を傾げる。
「そういえば、今日授業参観の日だ」
晴が卵焼きを頬張りながら、思い出したように呟く。
「あら! じゃあ、私が行くわ。ちょうど学校に行こうと思ってたのよ」
「俺が送ってやる」
「ありがとう。楽しみだわ。何着ていこうかしら」
「小学生の時みたいに、極道妻っぽい着物で来るのやめてよ」
「わかってるわよ」
「……大丈夫かな」
苦笑する晴の目尻が下がっている。
晴、嬉しそう。そりゃそうだよね。お母さんが戻ってきたんだから。
私だって、もう一度お母さんに会えたら……。
麗は卵焼きを口に入れ、噛み締める。
自分が作ってきたものとは全然違う味だ。
おいしい。けど、甘すぎる……。
理事長室で次郎は落ち着きなく、うろうろと歩き回っている。
スマホを取り出し、連絡アプリのトーク画面を見て眉をしかめる。
『もうすぐ着くわ』
「姉さん……」
コンコン。
ノックの音がしてすぐ、次郎は扉を開ける。
「ね……義兄さん?」
そこにいたのは黒スーツに身を包んだ恒一だった。
「よう」
「ひとり、ですか? 姉さんは?」
困惑する次郎を鼻で笑う恒一の後ろから、エメラルドグリーンのタイトなワンピースを着た紗季が顔を出す。
「ここよ。久しぶりね、次郎」
「姉さん!」
紗季はサングラスを外し、微笑む。
「本当に、戻ってきたんだな。……”あれ”はどうしたんだ? ”あれ”を守るために身を潜めてたんだろう?」
「麗ちゃんに渡したわ。私はもう、隠れない。あなたたちと一緒に麗ちゃんを守って、大熊を潰す」
「無茶はしないでくれよ」
「ええ。それより、今日は授業参観でしょ。あの子たちの様子見に来たの」
紗季はソファで足を組んでいる恒一に目を向ける。
「あんたも一緒にどう?」
「俺はいかねえ。ここで待ってる」
「そう。せっかくだから担任の先生にもご挨拶しておかないと」
「それなら、そろそろ来るはず」
ノック音がして扉が開く。
ぼさぼさ頭でネクタイもしておらず、だらしない恰好をした目白が室内に入ってきた。
「あら、メジロじゃない!」
「……どうも」
目白は頭をかいて顔を引きつらせる。
「言ってなかったか? あいつらの担任だ」
恒一が親指で目白を差す。
「聞いてないわよ。……ふふっ、あんたが教師? そんなだらしない恰好で?」
紗季が口元を押さえて笑いを堪える。
「うるせえな。仕方ねえだろ。仕事だからな」
「仕事熱心だこと。じゃあ、目白先生、教室まで案内してくださいます?」
いたずらっぽく笑う紗季。
目白はぼそっと低く呟いた。
「だからおまえに会うの嫌だったんだ」
「何か言ったかしら?」
「……別に」
理事長室から出ていく目白と紗季の後姿を見送った次郎は、恒一にちらりと視線を向ける。
「いいんですか、行かなくて」
「いい」
「……そうですか」
「何が言いたい」
「いえ、何も」
次郎は首を横に振って苦笑した。
1年3組の教室の後方には保護者が一列に並んでおり、生徒たちは後ろを見てざわついている。
「緑のワンピース着たお母さん、めっちゃ美人じゃない?」
「鹿島兄弟の母親らしいぜ」
「どうりでハルちゃんに似てるわけだ」
麗が後ろを振り向くと、紗季は笑顔で手を振る。
やっぱり目立ってる。あれだけ美人だと目立つなっていう方が無理があるよね……。
斜め前の葵と晴に目を向けると、晴はいつもどおり近くの席の女子と談笑し、葵は居心地悪そうに頬杖をついて貧乏ゆすりをしている。麗の視線に気づいた葵がぎろりと睨んでくる。麗はふいと視線を逸らす。
チャイムが鳴って目白が入ってくる。生徒たちは静まるが、保護者たちがざわつき始める。
紗季は笑いを堪えて、教壇に立つ目白の授業に耳を傾けた。
学校中に葵と晴の母が超絶美人だという噂が駆け巡り、その日の内にファンサイトには紗季の写真が何枚も投稿されていた。
「見てよ、これ。母さん全部カメラ目線」
帰り道、晴がファンサイトの紗季の画像を見せてきた。
遠目で撮られていたり、人ごみの中にいたり、明らかに盗撮に見えるのに、どれも目線が合っている。
「こわっ。撮る方も撮られる方もやべえな」
葵が口をへの字に曲げて眉をしかめる。
「紗季さん、さすが」
麗は感心して頷く。
鹿島家に戻ると、紗季が夕飯の支度をしており、洗濯物も掃除も終わらせていたので、手持ち無沙汰になった麗は自室へ向かった。
引き出しを開け、紗季に渡されたUSBメモリを取り出す。
「確認しないと」
麗はそれを握りしめ、部屋を出た。
麗は鹿島家の門の前で足を止める。
紗季が振り返り、麗の手を取る。その手は少し汗ばんでいる。
「行きましょう」
「……はい」
玄関を開けると、組員が驚愕の顔で紗季と麗を見て、廊下の奥に駆け出した。
すぐに騒然とし始め、複数の足音が玄関に向かってくる。
「紗季!」
恒一が紗季に駆け寄り、目の前で立ち止まる。
「……ただいま」
紗季がはにかむと、恒一は強く抱き締める。
その後ろから駆けてきた葵が、紗季と麗を交互に見て眉をひそめる。
「麗が何でお袋と……」
麗は、心臓がチクリと刺されたみたいに痛み、葵から目を逸らす。
「母さん……」
晴が呆然と紗季を見つめる。
「晴? こんなに大きくなって」
紗季は晴に手を伸ばし、頬を優しく撫でた。
泣きそうな顔の晴はうつむき、肩を震わせる。
「ごめんね。帰ってくるのがこんなに遅くなっちゃって……」
紗季は晴の肩を抱き、嗚咽をもらす。
「今さら何なんだよ」
葵が冷めた目を向ける。
紗季は涙を拭い、葵に手を伸ばす。
「葵……」
葵は紗季の手を避け、舌打ちをする。
「そうね。今さら、よね」
紗季は手を胸の前で組み、うつむく。
恒一が眉間に皺を寄せて葵の胸ぐらを掴む。
「何も知らねえくせに生意気言ってんじゃねえ」
「じゃあ、教えろよ! 何隠してんだよ! 麗の親父のことも、大熊のことも、何で俺たちには黙ってた!」
葵の怒声が響く。
恒一は手を離し、拳を握りしめる。
「……話してやる。ただし、聞いたからには覚悟しろよ」
廊下の隅で静かに成り行きを見守っていた澪へ、恒一が視線を向ける。
「大熊の娘」
澪は恒一に会釈をし、横目で麗を見て微笑んだ。
澪さんが、何でここに?
「とっとと帰れ。近い内に話をつける」
「はい。では、また宜しくお願いします」
一礼すると、澪は静かに去っていった。
リビングルームのソファに並んで座る恒一と紗季、その向かいに葵と晴が横並びに座っている。麗は恒一に命じられ、人数分のコーヒーを淹れてテーブルにカップを置く。
紗季はコーヒーを一口すすると、ふうっと息をもらす。
「懐かしい。……啓介さんの淹れるコーヒーと同じだわ」
「啓介って、お袋の浮気相手かよ」
顔をしかめる葵を、恒一が鋭利な眼差しで射抜く。
「勘違いしてんじゃねえぞ。紗季が浮気するわけねえだろ」
恒一が紗季の肩を抱き寄せる。紗季はやんわりと恒一の
手をどかし、葵と晴に優しい眼差しを向けた。
「きちんと説明するわ。麗ちゃん、ご両親の話、この子達にしてもいいかしら?」
麗は頷き、葵と晴をまっすぐ見据える。
「紗季さんは私の両親を助けようとしてくれたの。浮気なんかじゃない。それに、アオとハルを捨てたわけでもない。戻れない事情があったの。でも、私を助けるために紗季さんは戻ってきたの」
麗は手の中に握りしめているUSBメモリに目を落とす。
「……はあ?」
「母さんと麗ちゃんの両親、どういう関係なの?」
紗季は麗に話したことを2人にも話して聞かせた。
麗は横で聞きながら、コーヒーと一緒に涙を飲み込んだ。
紗季の話が終わる頃には、部屋は静まり返っていた。
葵と晴は口を引き結ぶ。すぐには言葉を発せない。
新しい真実を受け止めるにはあまりにも重すぎた。
その沈黙だけが、この夜の答えだった――。
両親と鹿島家との繋がりがこんなにも深かったことに、麗はまだ気持ちの整理がつかない。
胸の中に充満している黒々とした靄がうまく吐き出せない。
組長も紗季さんも、お父さんとお母さんを守ろうとしてくれた。
そして私のことも――。
この6年間、私にとって鹿島家は自由を奪う鳥籠だった。
下僕扱いされて、家政婦のように家事をして、学校にも行けず、この家から出ることは許されなかった。
だけど、私は守られていた……。
「誰も守ってほしいなんて言ってないのに――」
麗は頭まで布団を被る。
布団が小刻みに震える。
押し殺した声が暗闇に小さく漏れる。
カーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚めた麗は、時計を見て飛び起きる。
「もう6時半!」
急いで制服に着替えて部屋を飛び出す。
廊下に出て足を止める。
「……出られた。監視もいない」
鍵は外され、ドアの前には誰もいない。
麗は制服のスカートを握りしめる。
「何で着替えちゃったんだろ。学校、行ってもいいのかな。……あれ、この匂い?」
ふと、どこからか卵焼きの匂いが漂ってくる。
ピーッ、ピーッ、ピーッ。
洗濯機から、洗濯が終了する音も聞こえる。
「朝食も洗濯も、誰かがしてくれてる?」
麗は足早にリビングルームに向かい、キッチンを覗く。
フライパンを握って卵焼きを作っている紗季の背中が目に入る。母の背中と重なり、麗は思わず手を伸ばす。
お母さん……。
「あら、麗ちゃん。おはよう」
紗季が振り返り、麗はさっと手を下ろす。
「……おはようございます」
「もう少しでできるから待っててね」
「いえ、手伝います」
「いいのよ。学校に行く準備はできてる?」
「学校、行ってもいいんでしょうか」
紗季は火を止め、麗の手をそっと包み込む。
「もちろんよ。……麗ちゃんがうちに来てからのこと、夫から聞いたわ。私がいなかったせいで、不自由な思いをさせてしまったわね。本当にごめんなさい」
紗季の黒々とした大きな瞳が揺れる。
今更、謝られても……。
麗は俯き、唇を噛み締める。
声を出したら、胸の奥に押し込み切れない毒々しい思いが全部吐き出されてしまいそうだ。
「辛かったわよね」
紗季の腕が、ふわりと麗を抱き締める。
……温かい。
鼻の奥がつんとして喉が締まる。
優しさが苦しい。
「こんな可愛い麗ちゃんを下僕にしていじめて、閉じ込めるなんて」
紗季が麗の頭をそっと撫で、柔らかい笑みを浮かべる。
「本当、うちの男どもは最低のクズ野郎よね。たっぷりお灸を据えておいたわ」
フフフフフ、とにっこり微笑むが、目は笑っていない。
麗の背筋がぞくりと凍り付く。
理事長そっくりだ。
そういえば理事長と紗季さんは姉弟だった……。
「母さん、麗ちゃん、おはよう」
リビングに入ってきた晴が笑顔で手を振る。
プリンススマイルとは少し違う、柔らかい笑みだ。
続けざまに葵が現れ、ぶっきらぼうな態度で椅子に座る。
最後に組長も現れ、葵と晴の向かいに座る。
全員が食卓についたのはこの6年で初めてのことだ。麗は見慣れない光景に唖然とする。
「さあ、ご飯にしましょう。麗ちゃんも座って」
「あ、はい」
椅子に座って鹿島家が勢ぞろいした食卓を見回す。
いつもの場所なのに、全然違って見える。
組長と紗季がいて、葵と晴がいる。
鹿島家の”家族の輪”ができあがっている。
そこにいる自分は異質。
やっぱりここに私の居場所はない。
「食わねえのか? もらうぞ」
葵の箸が麗の目の前にある卵焼きに伸びる。
「だめ!」
咄嗟に葵の手を叩き、卵焼き泥棒を阻止する。
「葵、まだお灸が足りなかったみたいね」
笑顔とは裏腹な刺々しい紗季の声に、葵は手を引っ込める。そそくさと皿を重ねて台所に運び、リビングルームを出ていった。
「アオなりに心配してるんだよ」
晴がくすっと笑う。
「え?……そうなのかな」
麗は葵が出ていった方を見て首を傾げる。
「そういえば、今日授業参観の日だ」
晴が卵焼きを頬張りながら、思い出したように呟く。
「あら! じゃあ、私が行くわ。ちょうど学校に行こうと思ってたのよ」
「俺が送ってやる」
「ありがとう。楽しみだわ。何着ていこうかしら」
「小学生の時みたいに、極道妻っぽい着物で来るのやめてよ」
「わかってるわよ」
「……大丈夫かな」
苦笑する晴の目尻が下がっている。
晴、嬉しそう。そりゃそうだよね。お母さんが戻ってきたんだから。
私だって、もう一度お母さんに会えたら……。
麗は卵焼きを口に入れ、噛み締める。
自分が作ってきたものとは全然違う味だ。
おいしい。けど、甘すぎる……。
理事長室で次郎は落ち着きなく、うろうろと歩き回っている。
スマホを取り出し、連絡アプリのトーク画面を見て眉をしかめる。
『もうすぐ着くわ』
「姉さん……」
コンコン。
ノックの音がしてすぐ、次郎は扉を開ける。
「ね……義兄さん?」
そこにいたのは黒スーツに身を包んだ恒一だった。
「よう」
「ひとり、ですか? 姉さんは?」
困惑する次郎を鼻で笑う恒一の後ろから、エメラルドグリーンのタイトなワンピースを着た紗季が顔を出す。
「ここよ。久しぶりね、次郎」
「姉さん!」
紗季はサングラスを外し、微笑む。
「本当に、戻ってきたんだな。……”あれ”はどうしたんだ? ”あれ”を守るために身を潜めてたんだろう?」
「麗ちゃんに渡したわ。私はもう、隠れない。あなたたちと一緒に麗ちゃんを守って、大熊を潰す」
「無茶はしないでくれよ」
「ええ。それより、今日は授業参観でしょ。あの子たちの様子見に来たの」
紗季はソファで足を組んでいる恒一に目を向ける。
「あんたも一緒にどう?」
「俺はいかねえ。ここで待ってる」
「そう。せっかくだから担任の先生にもご挨拶しておかないと」
「それなら、そろそろ来るはず」
ノック音がして扉が開く。
ぼさぼさ頭でネクタイもしておらず、だらしない恰好をした目白が室内に入ってきた。
「あら、メジロじゃない!」
「……どうも」
目白は頭をかいて顔を引きつらせる。
「言ってなかったか? あいつらの担任だ」
恒一が親指で目白を差す。
「聞いてないわよ。……ふふっ、あんたが教師? そんなだらしない恰好で?」
紗季が口元を押さえて笑いを堪える。
「うるせえな。仕方ねえだろ。仕事だからな」
「仕事熱心だこと。じゃあ、目白先生、教室まで案内してくださいます?」
いたずらっぽく笑う紗季。
目白はぼそっと低く呟いた。
「だからおまえに会うの嫌だったんだ」
「何か言ったかしら?」
「……別に」
理事長室から出ていく目白と紗季の後姿を見送った次郎は、恒一にちらりと視線を向ける。
「いいんですか、行かなくて」
「いい」
「……そうですか」
「何が言いたい」
「いえ、何も」
次郎は首を横に振って苦笑した。
1年3組の教室の後方には保護者が一列に並んでおり、生徒たちは後ろを見てざわついている。
「緑のワンピース着たお母さん、めっちゃ美人じゃない?」
「鹿島兄弟の母親らしいぜ」
「どうりでハルちゃんに似てるわけだ」
麗が後ろを振り向くと、紗季は笑顔で手を振る。
やっぱり目立ってる。あれだけ美人だと目立つなっていう方が無理があるよね……。
斜め前の葵と晴に目を向けると、晴はいつもどおり近くの席の女子と談笑し、葵は居心地悪そうに頬杖をついて貧乏ゆすりをしている。麗の視線に気づいた葵がぎろりと睨んでくる。麗はふいと視線を逸らす。
チャイムが鳴って目白が入ってくる。生徒たちは静まるが、保護者たちがざわつき始める。
紗季は笑いを堪えて、教壇に立つ目白の授業に耳を傾けた。
学校中に葵と晴の母が超絶美人だという噂が駆け巡り、その日の内にファンサイトには紗季の写真が何枚も投稿されていた。
「見てよ、これ。母さん全部カメラ目線」
帰り道、晴がファンサイトの紗季の画像を見せてきた。
遠目で撮られていたり、人ごみの中にいたり、明らかに盗撮に見えるのに、どれも目線が合っている。
「こわっ。撮る方も撮られる方もやべえな」
葵が口をへの字に曲げて眉をしかめる。
「紗季さん、さすが」
麗は感心して頷く。
鹿島家に戻ると、紗季が夕飯の支度をしており、洗濯物も掃除も終わらせていたので、手持ち無沙汰になった麗は自室へ向かった。
引き出しを開け、紗季に渡されたUSBメモリを取り出す。
「確認しないと」
麗はそれを握りしめ、部屋を出た。


